頑固親父の人  名 録 


 1)白老のトオさん

毎年12月に為ると「正ちゃん!」と電話が掛かってくる。この電話で今年も元気だったのが解かる。

用件はタダ一つ「タイ・バンコックゴルフツアー」だ。

トオさんは昭和4年生まれで私より一回り上の現役の頃の得意先でもある。現役の頃はさっぱり儲けさせて貰えなかった替わりに何でもズバズバ言わせて頂いた。

マージャンとゴルフが好きでとにかく白老に呼び出されてはカモられた。ゴルフはからきしヘタクソだがマージャンは無類に強い。

カモられ続けた原因が最近解かった!

ゴルフにはハンデがあるがマージャンにはハンデが無い、この事に気付かず家一軒分位(実際は自動車一台分位かな)は白老に運んでしまった。

昭和の終わり頃にタイのバンコックにゴルフに誘ったのがキッカケで毎年厳冬期にバンコックに一週間から10日程ゴルフ(年によっては2.3度)に行くのが恒例になってしまった。

(有)北海道種鶏農場 会長 川上 一 氏 03.01



2)マノー君

 

バンコックに毎年行くようになったのはマノー君がいるからだ。彼は私より10才は若い。

30年程前に研修で実家に3年程いて日本語と鉄工所の仕事を覚え帰国してから現地で開業して頑張っている。

その頃私は既に北海道にいて彼にあってはいないのだが不幸にして研修中に機械に巻き込まれて右指を二本失ってしまったのだ。

ゴルフに行った時に立ち寄ったのがキッカケで彼の仕事のアドバイスをするようになり正確に数えた事はないが多分50回以上はタイを行ったり来たりしている

たった3年の間にタイ人と言うより日本人的な思想を身につけて七転八倒孤軍奮闘している姿と彼の右手を見ると応援したくなる。

今では300人以上の社員を抱えてタイの名士らしい。


彼がいるお陰で真冬のゴルフツアーが恒例になってしまった(従って50×平均5R=250ランド・・・・?)

一番喜んでいるのが白老のトオさんだが今年の調子だと来年はどうかな?

タイ バンコック在住 マノースチール社長 イワノワット マノー氏 2003.01



3)浜田輝男 氏

人名録でいの一番に書かねばならないのが氏である。

今現在の私の生活の全ては彼に出会った事にあると言っても過言では無い。

北海道に来て3年目に独立して出来たのは偏に氏に出会い氏の協力を得て今の私の会社が設立出来”畜産”の世界を知りました。

当時は共に北海道中を飛び回り頑張ったものです。

昭和16年生まれの同い年であるが経営者のイロハも教えてくれた。

「這ってもズッテも約束は守れ!」

「逃れて生きるよりも耐えて生きろ!」
が口癖で氏はその通り生きていた。

晩年の彼は国家と大手の航空会社に対抗して航空会社「エアドゥ」を立ち上げて東京札幌間に飛行機を飛ばしてしまった。

飛ばしては見たものの所詮養鶏場の親父の素人の経営で志半ばで急逝してしまったがその根性は道民の心に何時までも何時までも残ると確信している。


日本の飛行場から「エア・ドゥ」の名前が消えない限り 我が
家の二人の息子にとっては「浜田のおじちゃん」は永遠のヒーローである。

           元北海スターチック(株)、北海道国際航空・エアドゥ(株)社長 (2000.07.14没 2003.01) 



4)手打ち蕎麦の師匠 

私が以前”師匠・師匠”って呼んでいた男だ!

3年程前にこの男の打った「もりそば」を食って以来、もりそばに限っては何処の店のを食ってもこの男を超える美味い店に出会わない。

何度かオセエテもらったが上手く打てない・ テナ訳で押しかけ入門した次第で”師匠・師匠”って呼ぶとすこぶる機嫌がいいのでそう決めただけの事だ。

師匠も以前に夫婦で内地の名のある蕎麦店を回って食べ歩いた結果自分より美味い蕎麦に出会わなかったそうだ。それが開店の引き金になって ついでに蕎麦教室を開いて週二回は店を休業して教えている。


現在の会員150名巣立った教え子は優に1000人は越えている筈だ。

店名「四捨吾入」の如く教えている事とやっている事が全く四捨五入で此処が憎めないところだ。


本人は自らを「平成の市川団十郎」とか「南郷の郷ひろみ」などと言って若いネエチャンには親切に教えるが野郎どもには手厳しい。
だが憎めないのだ!

タバコとパチンコを止めればもっと尊敬するのだが本人は大きなお世話だと一向に止めそうも無い。

「手打蕎麦」は日本の文化で百年経っても日本人は喰っているであろう。

            札幌手打蕎麦愛好会 会長、手打ち蕎麦四捨吾入店主 小幡 栄 氏 2003.01



5)ハタケの師匠 

夕日ヶ丘山荘を開設した年に山荘の入居者の為に近所の農家のトオさんにお願いして農地を借りました。 それは入居者の皆さんが多分畑が大好きだろうと思ったからです。

取りあえず先ず私が弟子入りしました。

ところが此の師匠一向に何一つ教えてくれません。

弟子たるもの目で盗め!って暗黙の指導と思っていました。

ある日

オレ 「ナニを聞いてもナマクラ返事ばかりでオレに何か不満でもあるのか?」

師匠 「イヤ・別に!」

オレ 「だったらア?セィ!コウセィ!ってオセエテもいいべさぁ!」

師匠 「オセエタイのはやまやまだけど百姓60年やってても自信が無い。こうすれば絶対大丈夫って自信が無い!」

オレ 「・・・・・ ・・・・・・?」


師匠 「気候も土の状態も種も毎年違うしこうすれば絶対出来るって今でも自信が無いんだ!」

「自分が自信が無いのにシロウトにオセエテ失敗したら弁償出来ネェべさぁ!」

永い百姓生活で全滅の年を何回も経験したそうです。見るも無残な畑の状態を何回も見たそうです。

これが百姓の本音だと知りました!

それまでは農業の「の」字も知らない”ど素人”だったが、種を蒔き芽が出る喜びを知りそれを育てる苦労も暗黙の内に教えて頂いた。

都市化が押し寄せて年々農地が買収されて少なくなってゆく代わりに気の遠くなるような大金を手にしても一向に百姓を止め様とせず土にしがみ付いている。


家畜と人力だけで広大な北海道を開拓した明治の先人の苦労を知る事が出来たのもこのオヤジさんのお陰だ。

ついでに薪ストーブの薪も大分世話して頂いた。

私共家族が冬に凍死せずに生きられるのもこのオヤジさんのお陰といつも感謝している。

一つだけある欠点は私の上を行く”ドOチ”な事だ。

黒田フアーム二代目当主 黒田利春さん 2003.01



6)タコおじさん

同じダッチウエストFA285を焚く”薪ストーブ”が縁でお付き合いが始まったのだが私を先生と呼ぶ家来(私がそう思っているだけで彼は・・・・)の一人です。

観光バス(70台)会社を経営する大社長さんだが薪ストーブに関しては全て私の言いなりなのだ。

私の家の”床暖”に感動して自分もやりたいと言うのでお手伝いしたのだが何度奴の家の縁の下に潜らされたことか。

お陰で床暖に関してはお互い満足で来る客来る客に自慢しあっている。

最近は一緒にゴルフをしていて太い白樺・ミズナラを見つけると


「これ一本で5日分だな!」等と言う様にすっかり薪焚き人(家来)になって来た。

ある日、大発明をしたと言うので飛んで行ったら、


寝る前にタコ糸で空気口と自分の手を結び夜明け前にそれを引くと起きる頃に部屋が暖まっている仕掛けだそうだ。

バカらしくて鼻で笑ってやったが本人は真面目で一冬続けているそうだ。


「薪ストーブ病人」も此処まで来ると尊敬に値する。


家来のくせに生年月日が5日早いのが癪の種である。

                        千歳自動車(株)社長 沼田 勝次 氏 2003.01



7)プロカメラマン木戸さ

夕日ヶ丘山荘の件である雑誌社の取材で来訪されたのが縁で知り合ったが、取材そっちのけで薪ストーブから離れない。

話を聞いてみると薪ストーブが欲しいらしい。らしいのではなく買う機種まで決まっているそうだ。問題は資金でこれが中々薪ストーブまで回って来ず今冬も設置できないでいる。


面白い事に薪ストーブは無いがチエンソーを買ってせっせと薪集めはしている。普通逆だと思うのだが此処が違うのだそうだ。

立派なチエンソーを買うのなら安い薪ストーブを充分買える筈だがプロ写真家の目から見る世界は我々凡人とは違うのだろうか? 2004.01



8)松山君

夕日ヶ丘山荘を建築した会社の担当者だがこれがただ者ではない。

社長の方針なのだが施主のいかなる無理難題でも聞いてくれそれ相当に予算の範囲内で満足の行くようにしてくれるから参る。

開業して5年経った今でもちょっと困ったことがあれば一時間以内に解決してくれるし請求書が来た為しがない。

こんな社員がいれば大工を100人抱えていても営業社員が社長一人と言うのも頷ける。

夕日ヶ丘山荘が完成に近づいた頃入居者が集まらず違法と知りながらも札幌市内中の電信柱に張り紙をして回ってくれた事は今でも頭が下がる。

そんな彼だがしっかり社内結婚して「ももこ」のパパになって年末には必ず「もち」を届けてくれる。

彼がいる限り夕日ヶ丘山荘は安全に守られている。

                                   竹内建設(株)工事課長 2003.01



9)松田亜紀子さん

夕日ヶ丘山荘の生みの親は竹内建設の親父だが世に送り出したのが北海道テレビ(HTB)のニュースキャスターの彼女だ。

山荘の事を新聞記事で知り自ら取材に来て建設の理念に感動して夕方のニュース番組で放映してくれた。

その反響が多く春夏秋冬一年間季節の変わり目ごとに「あの山荘のその後」として様子を取材しては伝えて頂いた。

お陰で札幌市内に同業者が70軒も増えてしまった。

一年間のビデオテープを編集して「夕映え色を共に」と題して一時間のドキュメントも放映して頂いた。

これは私共夫妻にとっては生涯の“宝もの”です。

一年間取材されている間に私共夫婦にとって亜紀ちゃんは娘のような存在になっていた。


入居者一人一人の名前から生い立ちまで全て知り尽くしていた。

でないと本当のドキュメントは作れない。ジャーナリストとして一流の術を身につけていた。(美人としても超一流)

そんな亜紀ちゃんが会社を休業してアメリカに留学して3年経つが今だ戻って来ないのが気に成る。

私は今でもいずれテレビ朝日のニュースステーションの久米博の横に座る日が来ると信じている。

                             元北海道テレビキャスター 松田亜紀子さん2003.01


10)スエばぁちゃん(↑の写真の亜紀ちゃんの隣の方です

 


スエばぁちゃんは夕日ヶ丘山荘を開設した翌月にやって来ました。

市内で薬局を経営されてましたが息子さんに譲ってから暫く娘さんの所にいたのですが此処でも駄目でとうとう山荘に来ました。

歳をとってから極度の難聴になり都合の悪いことは殆ど聞こえませんが悪口陰口は奇妙に聞こえます。

来た当初はナニカニト一番の厄介者(?)でした。

ある日お出かけの時に

「お出掛けですか?何処サ行くの?」

「ウン、何処かイイ施設が無いか役所に行って相談してくる!」って! 帰って来て

「イイとこあったカイ?」

「有るけど今満員で入居するには暫く待て!だって!


「だから暫くは仕方無いから此処に居るサ!」ダト!

こんな憎たらしい事を平気で言うのだから嫁さんと上手く行く筈がありません。

しかし最近は諦めたらしく山荘では一番ハナシの解るイイばぁちゃんです。

7年もお世話していると親子のような情が・・・・・・

夕日ヶ丘山荘開所以来の入居者は今ではスエばぁちゃんだけです、スエばぁちゃんが一日でも長く此処に居てくださるのが私共夫婦の励みです。生きがいです。


大正6年(巳年)生まれで私と二回り違いで私の実父(超頑固親父)と同い年です、スエばぁちゃんだけは何時までも長生きして欲しいと心底思っています。

                       岡 スエさん(夕日ヶ丘山荘の入居者)       2003.01

 


 

11)ヒロシちゃん 

札幌近郊のある町の議長さんだが、もともと養鶏場の親父さんで仕事で大変お世話になった方だ。

ある時ある農場で完成間際の施設が火災で全焼した事があった。

このときに「正木を潰す訳には行かないので請け負い金額相当を仲間に言って集めなくては!」と言ってくれたそうだ。


この話を後から聞いた時は涙が出た。

社交ダンスが得意でこの「ワザ」で農家のカアさん方を見方に永年当選しているようなものだが、英国まで見に行って「ハーブ農園」を誘致して季節ともなれば観光バスが押し寄せて小さな町に多大な功績も残している。


そんな立派な方を家内共々「ちゃん付け」で呼ばせて頂き今日までお付き合いが出来る有り難さを身にしみて感じている。

              北海道夕張郡 由仁町 町議会議長 川股養鶏(株)社長 川股 博 氏 2003.01



12)函館のオカァちゃん

私には実の母親を含め3人のカアさんがいた。大学を出て北海道に就職して2年目に函館の現場に常駐した時の宿のおカミだ。

函館弁丸出しでマージャンが大好きで何時もカモにされていた。料理が上手く客の為に朝起こされてイカを買いに走らされたものだ。

今では結婚する以前の私どもを知る数少ない生き証人でもある。

東京に負けて北海道に来たときも優しく「アンタ方の為にはその方が幸せかも!」って言ってくれた。


人生の節目では必ず良き相談相手と言うより”聞き役”を演じてくれています。

晩年は息子の保証人になって家も土地も全部失い函館の郊外で借家住まいをしているが一向に落ち込む様子も無く常に私の事まで心配してくれている。

今でも元気でサバの麹漬けとかからし菜の麹漬けを送ってくれてるが、ここ2・3年は食って無い。

40年以上のお付き合いになる、既に88歳だそうだ!


実の母親には受けた事の無い恩を感じている。

                            元函館市”荘園旅館・女将” 武田 セイ さん 2003.01



13)倉本聡氏

実は見たことはあるが会って話しをした事は無い。 従って交遊録ではない。

が何故か身近な存在なのだ。

30年前に共に東京に負けて北海道に流れて来た訳だが、氏は「北の国から」で全国民に感動を与える程のシナリオライターとして立派な功績を残した。

北の国からのドラマの中の五郎とかナカチャンとか草太とか草太の親父のような人物(大滝秀二だがこれが亡くなった家内の親父にウリ二つで)は私の周りにも沢山いる。


私自身北海道に来て、 このような人物に助けられて今日まで来られた事は確かだ。

特に草太のようなバカは誰とは言えぬが私の身近に本当にいるのだ。

それを見逃さずに脚本として書ける氏に尊敬以外の言葉が見つからない。

98年に放映された草太の死を描いた”時代”は何度見直しても涙が出て止まらない。最高傑作だと思う。

あのドラマのお陰で私が北海道にいる限り氏と共に生きていると思っている。

この先「北の国から」以上のドラマは映画テレビを通して存在し得ないと確信している。
 

                            北海道富良野市在住 脚本家 倉本聡氏 2003.01





14)係 長
さん

 

40年前に就職で北海道に来て配属された先の「OO係長」が歓迎会の席で唄った歌を聞いて北海道を実感した。


時計台の鐘が鳴る
  大空遠くほのぼのと
    静かに夜が明けてきて
      ポプラの並木に日が照りだして
        綺麗な明日になりました
          時計台の鐘が鳴る♪

この歌は今でも心に染み付いて離れない。北海道の雄大な自然の中で生きる術を教えてくれた歌だ。

「係長」は酒が一滴も飲めず喫茶店を梯子して歩くのとオネエチャンが趣味だった。

晩年はオネエチャンで失敗したと風の便りで聞いたが一度も会っていない。

「係長」ならキット本望だろうと思っている。忘れる事の出来ないお方である。



                                 (元)楢崎造船(株)建築課係長 2003.01




15)直子 先生

直子先生と山畑孝子さん(旧姓)

小学校2年生の時に半年ほど習った先生だ。

戦後の焼け跡で優しさが残り何故か忘れられないその先生の所在が解かり思い切って電話をしてみた。

「あの?第一大島で2年生の時に習った正木・・・」と言いかけたら

「正木のしょうちゃんかい!今何処にいるの!」って!


いや?ビックリした。下の名前まで覚えていてくれて感動の余り次の言葉が出なかった。

何故半年だったのか?結核で入院されてそれで苗字も当時のままと言うのが解かった。

それにしても教師生活40年で送り出した子供が1000人以上いる筈なのに当時の教え子の名前を何人も覚えている何て本当にビックリ!

昨年55年振りのクラス会を初めて開いたが30人以上集まった。

皆童心に還り楽しい一時を過ごし次回を約束して解散したが昨日先生の訃報が届いた。

神の悪戯にしては酷過ぎると思う。大切な人を失ってしまった。(03.02.14没)

                       東京都江東区立第一大島小学校教諭 水野直子 先生 2004.01



16)恩師その2
 

直子先生とお会いした翌年に同じく小学校の3.4年生の時の担任だった落合先生の所在が解り懐かしさの余りお手紙を差し上げました。

戦後の貧しい時代で教室不足で“電車教室”を思い出します。

先生も当時の事を良く覚えていて特にワンパク坊主の私には手こずったようです。

そんな私共夫妻が夕日ヶ丘山荘を建設してお年寄りをお世話している事を手紙に書いたらその後は 年に何度も“お菓子・お茶・・・”を送って下さいます。

以前上京した時に都心のマンションに一人で暮している先生を訪ねたがお留守でお会い出来ませんでした。

次のクラス会に誘ったが健康を理由に欠席を知らされたので私も出ませんでした。

多分“卒寿”をとっくに超えている筈だが今だ教え子を覚えていて成長を見守ってくれる先生って大切です。

小学校時代の先生と生徒は“会う事無く”幾つになっても当時のままの方がイイかも知れませんネ。

何時までもお元気で生徒を見守って下さい。


                 東京都江東区立第一大島小学校教諭 香取(旧姓落合)利子 先生 2012.03




17)5丁目の圭子ちゃん

直子先生と音信が開通した時に一緒に所在が解かったのが5丁目の圭子ちゃんだ。

小学校の4年生までの同級生で頭がよく家も裕福で、貧乏で継ぎだらけのボロを着せられていた私には近づき難い存在だった。

そんな圭子ちゃんから50年振りに手紙を頂いた、当時の私の性格までキチンと覚えていてくれて感激の余り畑で取れたジャガイモを送ったらこれまた喜んで呉れてそれから文通が始った。(いい年して文通です!)

それはそれは美しい字でいい年して手紙が来るたびに開く楽しみが増えた。

彼女のお陰で50年振りのクラス会も実現した。いざ会ってみると何も話せなかった。

当時と同じ近寄り難いお姫様だった。

お互い電話は掛けた事が無かったが直子先生にイヤな予感がして初めて電話をして見に行って頂いたら 「検査入院だからそのうち又元気で戻ってくるわよ??!」とノーテンキな葉書だったが、時既に遅しで間もなく還らぬ人となって別の級友から訃報が届いた。

文通で最初は「正木君」だったが直子先生が亡くなってからは「正ちゃん」と書くようになった。

これが何より嬉しい! お互い長生きをする約束をした。

NHKの天気予報では札幌の天気まで気になってしょうがないそうだ!

直子先生が引き合わせてくれた圭子ちゃんを大切にしなくては!

今年も頑張って作ってイヤと言うほどジャガイモを送るぞ???!!

                     東京都江東区大島在住 福島圭子さん(旧姓高橋) 2004.01




18)1丁目の圭子ちゃん

5丁目の圭子ちゃんを書いたら1丁目を抜かす訳には行かない。

今でも鮮明に覚えているのは直子先生に習っている3学期に転校してきて私の隣に席を並べて座ったのだ。

これ又頭がよく家も裕福で直ぐにクラス1番の人気者になった。

人気者と言うより羨望の的で5年生になるときに分校で5丁目の圭子ちゃんが居なくなってからは1丁目の圭子ちゃんが本命で卒業後も存在が気になっていた。

私は金持ちと頭の良い女の子と圭子ちゃんという名に弱いのだ!

直子先生のお陰でクラス会では1丁目の圭子ちゃんにも再会出来た。

いざ会ってみると5丁目の圭子ちゃんと同じで何も話せなかった。

当時より以上に近寄り難い女王様のままだった。

名のある私立のお嬢様学校に行って幸せな家庭生活を送って来たそうだ。

彼女なら当然だろうと頷いて札幌へ戻った。


今年の正月に何十年振りに年賀状を貰ったが返事を出さなかった。

解かるかな?この気持!

その代り秋にはジャガイモを必ず送ります。

                                  村木圭子さん(旧姓中村) 2004.01



19)2丁目の考子ちゃん

お袋が亡くなった翌年に小学校の5.6年の時の担任の高塚先生が亡くなった。

連絡を呉れたのが同級生の波多野からだった。

お袋が亡くなった事で高塚先生の音信が判り通夜の席で波多野の音信を知って半年もしないうちに高塚先生も逝ってしまった。

波多野から当時の同級生の名簿を送って貰い何人かの居所が解かったが気安く電話を掛けられそうなのが2丁目の考子ちゃんだった。


ある日思い切って電話をして見たらお互いビックリ仰天でそれから交流(!)が始った。

50年振りのクラス会も考子ちゃんが一人で全部やってくれた。


小学校の頃は目立たない存在(成績は中の中?)だったが実際にあって見たら「イイ女」で二度ビックリでガキの頃から私は人を見る目が足りないと痛感して大魚を逃がした思いで札幌に戻った。


クラス会では不思議と2丁目の考子ちゃんとはしゃべれた。

優しいご主人と幸せな生活をされ今は週2回のヘルパーの仕事と孫のお守りで絵に書いた様な人生を送っているらしい。


私の薦めでパソコンに挑戦して時々メールが来るのが何より嬉しい!

                                 平川考子さん(旧姓山畑) 2004.01



20)2丁目の洋子さん(・・丁目シリーズの最後)

最後が2丁目の洋子さんだ!(忘れたら大変!女の世界は怖いのだ!)

実は彼女から昨年のクラス会のあとお手紙を頂いたのを機会に音信が開通した。

5年生の時転校して来たがこれまた社長令嬢で1丁目の圭子ちゃんと1-2を争う美人だった。

無論ボロをまとった小生は近づく事さえ出来ないで遠くから眺めているだけの少年時代が記憶にある。

昨年のクラス会ではとうとう一言も話さないで帰って来たが暫くして突然お手紙を頂いた。

美人で成績がよく近寄り難かったが転校して来た彼女なりの当時の気持が事細かに書いてあった。


私の勝手な思い過ごしであの頃もっと近づいて優しく守ってやれなかった自分がバカだった事に今頃気が付いたが時既に遅しである。

悪ガキだった私の様子を事細かに覚えていてくれて、現在の私の様子について直子先生のように激励してくれるが何故か母親が我が子に対する口調に似ている。

必ず一言説教が入る。


これが又たまらなく嬉しい。(この年になると説教をしてくれる人などいない)

当人はサラリーマンに嫁ぎ子育ても終わりカルチャースクールと海外旅行と近くに住む孫が生きがいで毎日を平和に過して居るそうだ。(写真の左が洋子ちゃんで右から二番目が一丁目の圭子ちゃん

                                    辻 洋子さん(旧姓橋爪) 2004.01



 
21) シュウちゃん

某三流大学の同級生だけど二歳年上だ。

現役の坊主頭で入学した私と二浪の彼とは親父と子供位の違いがあった。


女5人の中でたった一人の男の子で育った割には男らしい男だ。

長男で育った私には兄貴のような存在でその上下関係は今でも同じだ。

60年安保闘争は何が何だか解からないままに彼と同じ行動をして、鉄工所を経営している親父にこっぴどく怒鳴られたものだ。

彼の小学校の同級生が長野県の霧が峰高原で山小屋をやっていたので春夏秋冬くっついて行ったものだ。

この年になって薪ストーブに夢中になったのも当時の影響が無いとは言えない。

麻雀、パチンコ、ビリヤードと遊びの全てを教えてくれた。麻雀が無類に強く彼に勝った事が無い。

(卒業後覚えたゴルフは月とスッポン程私の方が上手いが・・・)お互い硬派でオネェチャンにはさっぱり縁が無かった。

人生の節目で困った時には必ず彼に電話をしている、本題は話さなくても彼の声を聞いているだけで決断する勇気が沸いて来る。 実に不思議な男だ!

皆で集まった時の割り勘の金集めをやらしたらシュウちゃんの右に出るものは居ない(自民党の幹事長にうってつけの人材なのだが・・・)

酒が好きで身体を壊さなければと心配している。

                        東京都目黒区在住 西山 修 氏(日建総業 社長) 2004.01


 
22)三流大学同級生

同じく某三流大学の同級生。

札幌で生まれ育った彼と東京で生まれ育った私が東京と札幌に各々別の生まれ故郷で生活しているから不思議だ。

市内の老舗の呉服屋の次男坊で甘えるだけ甘えて育った為か今頃苦労をしているらしい。(私には苦労に見えないが・・・・)

病院で寝たきりの90才を過ぎた母親を兄嫁に預けたままなので息子に替わって季節の変わり目ごとに見舞いに行くのだが少しもボケてなく「不肖のドラ息子」の自慢と行く末を心配している。

自分の母親に出来なかった事の罪滅ぼしの積りで見舞いに出かけたが私が行くのを非常に楽しみにして下さり、亡くなる一月前に彼を無理やり札幌に呼んだのだが息子の顔を見て安心したのがいけなかったか昨年天寿を全うした。

建築設計事務所を経営しながらパソコンに取り付かれて今ではどちらが本職か解からないほどの熱の入れようだ。

てな訳で私のパソコンの先生でもある。

ホームページを立ち上げられたのも、今こうしてパソコンをいじれるのも全て彼のお陰だ。

何か困った時はそれはそれは親切丁寧に解決方法を教えてくれる。それまでは”ヒガシさん”と気安く呼んでいたが今は”先生”と呼ばされている。

メールを書くときも必ず「先生!こんにちは!」と書かされている。こう書くと何でも直ぐに何とかしてくれるのだ。実に単純明快な男です。

学生時代の友は実に有り難いものだ。

                     東 紀夫 氏(アズマ工房 社長 写真右端が東氏 中央は守田氏  2004.01




23)三流大学同級生その

同級生と言えば↑の写真の中央のモリタも三流大学の同級生です。

江戸っ子の中の江戸っ子で実家が浅草橋の老舗の帽子屋だが家業は兄貴に任せて建設会社に就職したもののアット言う間に会社を辞めて“帽子屋修行”をした変わり者です。

仲間の中で只一人彼女が居てナナハンのオートバイで通学してました。

卒業後その彼女と世帯を持って一男一女を世に送り出したとたんにカミサンがクモマッカでアット言う間に他界してしまいました。

そんな奴を上京した折に自宅に寄ったら“男ヤモメ”が部屋を綺麗にして今でもカミサンの箪笥をそのままにして思い出を大切にして生きている姿を見たらジィーンと来ました。

最近はミドリのオジサンに嵌り毎朝交差点で小学生達を見守り 本人は“準国家公務員”だとエバってます。

写真は私の為に作ってくれた帽子です(これが届いた三月後にカミサンが・・・・)


                      東京都江戸川区在住   守田帽子店 店主 守田宰久氏 2012.03


24)四流高校同級生 

高校時代の同級生で勉強も運動も大して目立たぬ存在で小岩を代表する”要領のイイ奴”って印象だった。しかし卒業後は何と無く仲間になっていた。

二年浪人して今の総理大臣(コオイズミ)と同じ学校を出て外資系の会社の其の又子会社に入ってからは札幌に出張の度に我が家に立ち寄ってくれて、 昔の思い出話し・東京の仲間の様子などを楽しく語るのが楽しみだった。

我が家に泊り込み此処から仕事先に通ったりもしてました。

デ其の都度ホテル代・メシ代を浮かせてゴルフ代を捻出して楽しんで帰って行きます。

私もそんな彼が来るのが非常に楽しみでした。

夏休みには家族を連れて一週間ほど滞在した事も二度程あり、冬の雪祭りにも家族で泊まりに来ました。

ところが定年になってからは電話すらピタリと来なくなりました。

今思うと我が家は単なる旅館代わりだったようです。 所詮サラリーマン人生なんてこんなものでしょう。

先日も定年後は一緒に行こうと約束していた冬のバンコックゴルフツアーに誘ってやったが返事すら来ません。

 ったく!

                             ○井○ 洋○氏(江戸川高校・同級生) 
2004.01


25) 親友兼仲人!

高校時代の親友でした。でしたと言うのは35歳でガンで亡くなってしまったからだ。

市川の金持ちのお坊ちゃんで何をやらせても一番だった。

特にスポーツは万能(水泳を除いて)で桁外れの馬力の持ち主だった。

二年浪人しても目的の大学に入れず仕方なく二流大学に通っている頃、当時室蘭に就職している私を頼って冬の北海道にスキーに来た事がある。

目と手の早い奴でイの一番に今の私の家内(当時はつやちゃんって)に目を付けたのだが、それだけは事情を話して勘弁願った。

私の心を察した彼はその後二人(私とつやちゃん)を上手くコントロールして結婚まで漕ぎ着けてくれた。

人を引き付ける魅力ある奴で常に人の輪の中心にいた。生きていたら市川市長・千葉県知事はおろか総理大臣になっても不思議で無いくらい心も身体もデカイ男でした。


私が北海道に来た翌々年にガンに持って逝かれたが私の人生で実に惜しい人物を失ったと今でもそう思っている


”イイ奴ほど早く眠る”って本当らしい!

                             山中 将行氏(江戸川高校・同級生・故人) 2004.01


26)親友のオフクロさん


実は氏は↑の親友兼仲人の兄貴(写真は兄貴のオフクロさん)です。

高校時代 彼(将行)の家に行って以来のお付き合いです。

親友(将行)の妹(数年前に他界)とオフクロさんには行く度に“飯”の世話になったものです。

彼が若くして他界した後も上京の折に何度か尋ねたものです。

行くとオフクロさんは百歳を超えてなお私の事を覚えていて下さりました。

氏(親友の兄貴)はそんな母親を奥さんと最後まで自宅で介護しました。

市川市の名士で実家の取締役をお願いした事もあります。


人生の節目で決断を迫られた時は氏のお宅に行って特に相談をする訳では無いが顔を見るだけで決断が出来るのです。


気が付いて見たら彼(将行)より長い付き合いになってました。


母親を見送った現在は事業を息子さんに任せてゴルフ三昧の悠々自適のセレブ生活を送っています。

主題の兄貴は無鉄砲な弟(同級生)を何時も優しく見守っていました。

そんな弟に成り代わり時々訪ねる事にしています。行くと“ホット”するんです。

金持ちの息子(と言っても80歳を超えてるけど)って最後まで金持ちってホントですネ。

                                   山中軽金工業会長 山中一晃氏 2010.08



27)山荘の生みの親 

 

自宅の向かいの空き地の有効利用を銀行の支店長に相談したら氏を紹介されて取り合えず借家を一軒建ててもらったのがきっかけでお付き合いが始まった。

ある時に孤独死の話しから残りの土地に"夕日ヶ丘山荘"を作る羽目になってしまった。

まだ介護保険も無い頃に これからの高齢化社会にたいして民間の高齢者施設が必要だと説得されついついその気になって気が付いた時に印鑑を押していた。

田舎の 中学を出て札幌にきて大工になり やがて独立して今では大工100人を抱えて頑張っている建築屋の親父だが、営業マンは置かず社長一人でそれだけの仕事を集めて来る。

何が素晴しいって!


アフターサービスの行き届いているのには驚かされる。6年経っても何かあれば1時間後には必ず何とかしてくれている。6年経っても請求書が来た事が無い。

これなら安心して他人に紹介できます。

今札幌で一番輝いている工務店だと言う噂はホントらしい!

                                 竹内 俊朗氏(竹内建設・社長) 
2004.01


28)ゴルフの師匠

ゴルフの先生と言っても技術を習った訳ではありません。

氏の一言が私をゴルフを上達させてくれたのです。

氏の経営する農場の新設・改築を私の会社が施工した際に何度かゴルフを共にする機会を得ました。

当時から氏はシングルプレイヤーで3?4のゴルフ場のクラブチャンピオンを10回以上取られている雲の上の人です(北海道で氏を知らないゴルファーはモグリかドシロウト)

ある時私が

「社長・どうやったら上手くなるのですか?何か近道があったら教えて下さい!」

「正木さん、あんたゴルフが上手になりたいの?」

「当たり前で無いですか!」

「だったら練習以外に無いヨ!」

「上手くなりたい奴が練習もしないでグリーンで大叩きしてニヤニヤ笑って誤魔化しているとアンタ仕事もそうだと思われるヨ!」

非常にキツイ一言でした。

翌日から自宅の車庫を改造して練習場を作り毎日100?150発を1年間打ち込みを続けました。

その一言から二年後にシングルの仲間に入れて頂きました。

その後氏は千歳のゴルフ場の社長になり現在でもお付き合いをさせていただいています。

                                     武石忠俊氏(シャムロックCC社長)
2005.01


29)チエンソーの神様

薪ストーブに出会ってから薪作りの為にチエンソーをホームセンターで売っていた30ccの安物で暫く凌いでいたがある方からプロ用(キョーリツ)を譲って頂いたのが縁でお付き合いが始まった。

しかしこいつがナカナカの曲者で(エンジンが掛からないとか)たまたま我が家から10分ほどの所に営業所が有ったので何かあればソク飛んで行きその場で直して貰えるのが何よりです。

当人はエンジンに掛けてはプロ中のプロでどんな物でも直してしまう。

幸いな事に"手打ち蕎麦"が大好きでお礼はこれで大体OK,こういうのを"持ちつ持たれつ"と言うらしい。

彼のお陰で廃品寸前の機械を組み立て直して「これ使っていなよ!」

テナ訳で30ccから60ccまで5台も集まってしまいました。チエーンも死ぬまでの分が貯まりました。

薪ストーブが有る限り大切な人の一人です。



                              山田 亨 氏(北海道共立エコー勤務)
  20 05.01


30)押し花教室の先生


氏(と言ってもオバサンだけど我が家では育ちの良さからオジョウサンと呼んでいますが)は押し花教室の先生で幾つかの教室の一つを夕日ヶ丘山荘に開設して月に一度は入居者と近隣の方に無償(機材は実費)で教えて下さっています。

家内の唯一の相談相手で公私に渡りお世話になっています。

医学博士のご主人(某国立大学院教授)と一男一女を医者と薬剤師に育て上げ悠々自適の人生を謳歌しているように見えます。

山荘の入居者の一人一人の様子も全て知り尽くし山荘には無くてはなら無い存在です。


山荘の行事には必ず手作りの一品を提供して下さり何時も頭が下がります。

欠点は秋田生まれの絶世の“美人”で私に2メートル以上近づかない事です(多分単身赴任しているご主人の命令??)

ご夫婦揃って手打ち蕎麦が大好物でご主人が来札の折は必ず打って日頃のお返しをしています。




                                札幌市清田区      羽田澄子さん 2007.06


31)真の管理人(?

夕日ヶ丘山荘を開設した翌年に誰かお手伝いをしてくれる人が居ないかなぁと思っていたらある方の紹介で飛び込んで来たのが近所に住む彼女でした。

それから今日まで殆ど休まず夕食作りをしてくれています。

昔パート先で身に付けた"てんぷら"の揚げ方はプロ並み(天下一品)です。

入居者の方もちょっとした相談事は私達夫婦より彼女の方が話しやすいようで今では夕日ヶ丘山荘には欠くべからずの存在です。

素敵な二世帯住宅でご主人と息子さん夫婦とお孫さんに囲まれ"日本の幸せな家庭の見本"のような生活をされています。

彼女が居る限り夕日ヶ丘山荘は安泰です!

                                札幌市清田区 山田栄子さん(主婦)05.01



32)初めての海外旅行

私の産まれて初めての海外旅行は1985年43歳の時です。行った先は中国でした。

ある日、国際養鶏の太田さん(北海道の企業養鶏の先駆者で業界では天皇と呼ばれて居た)から呼び出されて

「中国からアゴアシ付きで招待をされているけど私一人では心細いので一緒に行かないか?」と相談を持ちかけられました。

中国往復の航空券(当時は片道20万位しました)だけは当方持ちで現地は全て中国側の招待と言う夢のような話に二つ返事で二週間ほど行って来ました。

当時の中国は文化大革命の終わりきって居ない時期で男も女も”人民服”を着ている時代でした。

行く先は北京・フフホト・鄭州・上海の四都市を二週間掛けて主として養鶏場を視察して来ました。

行く先々では日本の知事市長クラスが大歓迎してくれました。

写真は鄭州市の役場で養鶏場建設の合弁事業について”意向書”の調印式です。

帰国してから何度か打ち合わせをして解った事は中国側の提供するのは土地とそこで働く人間だけで後は全て日本側の負担で儲けも日本に持って帰れない仕組みでした。

アゴアシ付きに危うく騙されるところでした。

しかし太田さんとの二週間の大名旅行はそれはそれは素晴らしいものでした。

寝る時以外は通訳が着きっきりで行く先々での中華料理の歓迎も素晴しいものでした。

そんな太田さんが2/1に亡くなり一昨日お葬式に行って来ました。

72歳肺ガンだったそうです。イイ思い出を有り難う!貴方の事は一生忘れません! 

 

                                 ( 国際養鶏 故 太田道則氏 2008.02.04

 

33)自ら省みて直くんば千万人といえども吾往かん!

北海道新聞は道内に住む方の訃報を毎日掲載してます・頑固親父毎日目を通す訳ではないが時として知人の訃報を此処で知ります。

実は昨日の朝も何気なく知人の訃報をしりました・三流大学を卒業して就職した会社の直属の上司(課長)でした。

会社のイロハを徹底的に叩き込まれました。

酒豪で一見豪放磊落に見えるが実際は繊細な心の持ち主で部下の責任を取って晩年は不遇な人生だったようです。

そんな上司が北海道室蘭市の造船所で3年の修行を終えて実家に戻る時の送別会で色紙に書いてくれたのが

「自ら省みて直くんば、千万人といえども吾往かん!」でした。

何故か私の人生訓にもなってその通り生きてしまったような気もします。

(当初5年の約束だったので1級建築士を必ず取らせるが口癖だったが3年で超頑固親父から呼び戻され適わぬ夢でした)

家内が東京に嫁に来る事になった地元の宴席では仲人役を勤めて下さいました。

嫁に行かない娘さんが唯一心残りと数年前にお会いした時に言ってました。

私の過去を知って下さる方を又一人失いました(近々超頑固親父が避暑に札幌市に来るのでその時は一緒にお線香を上げに行こうと思います 

                             元楢崎造船建設部建築課課長 吉田坦 氏 2009.07.13)



34) 町の発明家

実は奴(ドクタータカダ)が頑固親父の薪割り機の製作者です。

頑固親父が北海道に来た翌年に知り合った鍛冶屋の親方(職人)です。昭和16年生れの同い年です。

鉄に関するプロで結構一緒に仕事もしました。

アタマと手先の器用な奴で今までにもイロイロの物を発明(?)しています。

石油ストーブを利用した床暖装置・浄水器・自動果樹搾り気・燻製器・耕運機・ガレージ・物置・煙突・薪割り機・蕎麦切り包丁・・・・・

今はサクランボの種と皮の分離機を考案中とか

何か一つのモノに執り付かれるともうそれだけで世界を征服したような気分になり夢は果てしなく広がる男なのです。

しかしどれ一つ完成品として世に出てカネになったものが無いのです。

そんな彼を我が家ではドクタータカダと呼んでいます(東京で選挙の度に立候補する発明家にダブリるんです)

近年は奥さんにも逃げられ(本人はヒマを出したと言ってるが)一人暮らしを気楽に楽しんでいるが孤独死が気に為ります。

                                  (高田製作所社長 高田富士夫氏) 2008.03


35)伐採名人

 

夕日ヶ丘山荘を開設した年にある方の紹介で視察に見えたのがきっかけでお付き合いが始まった。

氏は障害を負ったお子さん(長男)を30数年育てて将来はそのような施設を開設するのが夢とか・・・・

氏の本職は造園屋さんで、二つ返事で山荘に赤松を移植してくれました。

本業で伐採された木の処分と私の薪ストーブが合致してそれ以降原木を運び込んでくれるのだ!

最近は氏の仲間まで勝手に運び込んで呉れるので原木置き場がワヤです。

伐採をやらせたら氏の右に出る者はそうそう北海道には居ない「名人」だと氏の弟子が言ってました。

畑で使っている耕運機も氏の会社に眠っている機械で自由に使わせて貰っている。

頑固親父の「薪ストーブ生活とハタケ生活」をして行く上で欠かせない存在なのです。

お礼はハタケの作物と手打ち蕎麦しかありませんがそれで結構喜んで頂いています。 

                                    伊藤辰彦氏(豊平造園土木・社長) 05.03


36)隣のたっちゃん


昭和54年に清田のこの土地に越して来た時からの“隣人”です。

ナ訳でカレコレ30年以上のお付き合いになります。

たっちゃんは暖房配管関係の仕事をしていたので我が家の水回りに問題が生じるとその都度「たっちゃ~~ん!」テナ訳です。

何時も気軽にイヤな顔ヒトツせずに何とかかんとか直してくれます。

特に薪ストーブ生活を始めてから“床暖”の管理人です。

毎年何度か配管の“エアァ~噛み”で大騒動しますがその時もイヤな顔ヒトツせずに来てくれます。

循環ポンプを地下に設置してるのでその都度階段を昇ったり降りたりでそれはそれは大変な作業です。

真冬に一週間もタイにゴルフに行けるのも隣にたっちゃんが居てくれるお陰です。

私が今年3月にガンの手術でヒトツキ家を空っぽにしたが今年80歳のたっちゃんも同じ時期にアイスバーンで転んで尾?骨を痛め入院していたそうです。

お互いに歳をとったものです。

                                  札幌市清田区 (2011.05 川原田琢磨さん)


37)公認会計

氏は札幌駅前通りの銀行のビルに事務所を構える「公認会計事務所」の所長さんです。


北海道に来てから設立した会社も今年で34期目です。しかしその会社も役目を終えてそろそろ 精算の時期を迎えています。

会社設立して間も無くしてからお世話になりナンダカンダ25年以上のお付き合いです。

数年前から実家の後始末を引き受けてからは兎に角 氏のアドバイスにより救われて来ました。


私より8歳も若いが私の兄貴のようなものです。

我が家と一緒で二人の男の子に恵まれそれぞれ氏の事務所と別会社を任せ いずれは悠々自適の羨ましい人生計画のようです。

中山公認会計士事務所所長 中山定雄氏 2012.03


38)顧問弁護士 

2007年の春に突然超頑固親父から呼び出され“実家の後始末”を任されてしまいました。

取り合えず超頑固親父に代わり代表取締役に就任したとたんに超頑固親父の身内から“訴訟”を起されてしまいました。

当初は超頑固親父の時代から顧問契約している弁護士(大センセイ)を頼りに進めていたが半年後にその先生が突然脳溢血で倒れ困っていたら息子と名乗る方が現れてその後の弁護をして頂き何とか“勝訴”出来ました。

私の息子より若い弁護士なりたてのホヤホヤなのでバリバリと正論でぶつかって来るので時には「一体アンタは誰の弁護人なんだ?」って何度も激論をしました。

「一体アンタは誰・・・」のまで言うと解ってくれて私の意向を聞いてくれるのです。

超頑固親父の身内と一切のケリをつける事が出来たのも工場跡地の有効利用としてスーパーマーケットを建設できたのも氏のアドバイスが頼りでした。

実家の後始末を順調に出来たのは偏に「ワカ先生」のお陰です。

                               竹田高山法律事務所所長 高山烈氏 2012.03


39)主治医1 深川剛生

満69歳の冬に突然“胃ガン”の宣告を受けました。

氏はその時の主治医(国立がん研究センター中央病院)です。

入院した翌々日に“東北大震災”の地震に遭遇し18Fの個室で恐怖を越して呆然としていました。

夜遅く先生が一人で病室にやって来て

「恐かったカイ?」

「あれだけ大きく長く揺れると不思議と恐怖はありませんでしたネ」って

「オレも手術中で一時はどうなるかと思ったよ!」

「それはそれは!」

津波に飲み込まれる人 生き残る人 その日に個室で手術を待っている人 その人だって腹を開いて見ないと本当の事は判らない  全ては神が決めた“運命”だと思うヨ!」って!

抗がん剤の第一クールが余りにも副作用がキツク外来の折に主治医に

「抗がん剤はもう勘弁!止めたい!」と言ったら

「それもイイけど!来年の今頃はこの世に居ないかも知れんぞ!」って何気なく言われました。

あの一言で 家内に脅されながら兎に角イチネン頑張りました。

4週間朝晩抗がん剤を飲んで2週間空けて上京して検査を一年繰り返しました。

6週間毎に飛行機に乗って時には日帰りでも先生の顔を見るだけでホットするのです。

心も身体もデッカイ先生です。



                   国立がん研究センター中央病院 胃外科医長 深川剛生氏 2012.03

40)主治医・2 

主治医と言えばこの先生も頑固親父にとっては大切な方です。

人間この歳になってもナニが怖いかと言うと歯医者ほど怖いものは無い!

歯を削るキィ~ンと言うあの音ほど怖いものは無い。

この先生に世話になる以前は近所の歯医者に通っていたが

「先生は虫歯の治療をした事があるのですか?」

「僕は虫歯は一本もありません!」

「って言う事は歯医者に通った事が無いって事?」

「そう言う事になります」

患者の怖さを知らないその先生とはその一言で行くのを止めました。

歯医者は何処でも予約制で 痛いから電話しても直ぐに見て貰えない世界だが この先生は一応予約制でも何時行ってもイヤな顔一つせずに見てくれるから助かります。

タコオジサン(人名録参照)の紹介で通うようになってから歯は早め早めの治療が一番と思い少しでも異常を感じたら痛くなる前に行く事にしている。

近年は家内共々インプラント治療に嵌り老後に備えています。

人生には良い“医者と弁護士と税理士”が大切ってホントですネ。

                             土谷歯科クリニック医院長 土谷卓央氏 2012.03

41)悠々自適の釣り名人

以前の取引先の方で暫く音信不通だったが氏からのネットサーフィンで付き合いが再開しました。

と言っても25年以上今だお会いしていません。

氏は農場が有った“白老”に終の棲家を構え定年後は“釣り三昧”の悠々自適の生活を送っています。

ナニが嬉しいかと言うと年に数回釣りたての“宗八カレイ”が近くに住む釣り仲間が運んでくれるのです。

3時間前まで生きていた“宗八”を捌いて“刺身・空揚げ”はウメェノナンノッテ!無論頭と内臓を取って10%の塩水に1時間浸して一晩干した宗八も絶品です。

人生持つべきものは“友”ってホントですネ。

世の中には星の数ほどのブログがあるが“毎日更新”しているのは私と名人くらいなものです。

花の名前 樹の名前 鳥の名前を知っている“名人”でもあります。




                 北海道白老町在住 (元北海スターチック専務取締役) 秋野豊男氏 2012.03


42)昔の片腕

氏は北海道に来る以前東京の実家の鉄工所でバリバリやっていた頃の私の方腕(部下)でした。

小さな町コウバを橋梁を製作出来るまで彼と二人で築き上げていずれは上場会社にするのが夢でした。

しかし志し半ばにして
当時の社長(超頑固親父)と意見が合わず東京を捨てる決心が勝ち親子三人で北海道に移住しました。

当時私の片腕だったコボリクンを残して来たのが心残りと言うより彼に対して済まない気持ちで一杯だったが私自身家族を守る事が先決でした。

私が北海道に来た数年後には彼も実家を辞めて生まれ故郷に戻り尚更心に引っかかって此処まで生きて来ました。(年賀状だけの付き合いは細々と続いていました)

先日私が胃ガンの手術をした後に“父のお別れの会”の案内を出したら

「胃ガンの治療中で出席出来ない」と電話が掛かって来ました。詳しく話を聞いたら末期で手術も出来ない状態だそうです。

そんなコボリクンに元気な内に一目会いたくて昨年上京の際に家内と一緒に栃木の益子町に住む氏に会いに行き再会をし当時の事を心から詫びました。

抗がん剤が効いているのか想像以上に元気な氏に会えて心の痞えがとれました。

上場会社の夢は適わなかったがこれから先はお互い少しでも長生きをしたいものです。




                    栃木県益子町在住 ユーテック代表取締役 小堀健一氏 2012.03


43)支配人さん


所属するCCの支配人さんです(年齢は私より一回りと一つ下です)

私がゴルフを始めた頃はCCの支配人は男が憧れるナンバーワンの職業でした。

どんな偉い方でも其処でゴルフをするには其処の支配人の匙加減でした。

しかし彼が支配人になった頃は世の中CCだらけで昔とは全く違う世界になりメンバーさんのお守り役です。

毎月毎月売り上げのノルマ達成に追われ気の毒な職業ナンバーワンです。

ナ訳で何時でも彼が暇な時は気軽に相手をしてくれます。

一人空きが有る時は「今から来ませんか?」と誘っても呉れます。

そんな支配人ですが握りの方は厳しく(ホールマッチ・ラスベガス・オリンピックで)必ず取られます。


パットの名手で何でプロを目指さなかったのか不思議な方です。

「パターの上手な人はこの世に星の数ほどいるよ!」ってオリコウサンな方です。

毎年冬場にCCとプライベートとでタイに行くのが何よりの楽しみです。

私の夢は80歳になっても支配人さんと握りのゴルフです。

その為にはそれまで生きているって事と健康でなければ駄目ですネ

                                (2011.05 シャムロックCC支配人 青砥偵明氏)



44)憎めない奴

彼が自動車販売店の店長だった頃一度だけ新車を購入したのが縁で今日まで付き合いが続いてます。

何時の間にかゴルフを年に何度かする間柄です。

高校大学と野球一筋で社会人になってからは北海道代表で後楽園まで行ったそうです。


無類の博打好きでマージャンパチンコゴルフ囲碁将棋と何でも賭けないと気が済まない性質です。

超頑固親父の将棋の相手をしてくれるのは有り難いが、手を抜いてやる事を知らない男で

90過ぎた年寄りをコテンパンにやつけてしまいます。

(流石にこの時は一局幾らとは言わなかったそうです)

ゴルフは何年やっても右や左の旦那様でハッキリ言って私のカモです。

負けず嫌いなので取られても取られても掛かってくる憎めないホントイイ奴
です。

(タバコを止めてくれたらもっともっとイイ奴です・ホントは昨年値上げの時に買いだめしたのが無くなったら・・・の筈だが)

                                      (オートウエイ猪原社長 
2011.05)


45) ワンコの世話人

夕日ヶ丘山荘の朝のお手伝いさんとしてお付き合いが始りました。

朝1時間半お仕事の約束でお願いしたが倍の3時間もボランテァして頂いてました。

入居者もお世話も時として日中までお付き合いして頂きそれはそれは山荘にとって何時しか無くてはなら無い存在でした。

山荘を閉鎖する決断に対して一番寂しく悲しんで呉れました。

自宅でもワンコを3匹飼ってるので夫婦で東京に行く時は我が家のワンコの世話の一切をボランテァして頂いてます。

特に夫婦で一月も留守して私が東京でガンの手術が出来たのも彼女のお陰です。

私共夫婦とワンコにとってはこの先も無くてはなら無い大事なお方です。

                                    札幌市清田区        (2011.05 森京子さん)


46)業界の天皇

昭和49年の11月に北海道に来てから一年半で4社も転々としました。

最後に就職した会社(畜産関係の設備会社)の社長に入社した翌日に連れて行かれたのが札幌郊外の「ミンク場」でした。

生まれも育ちも生粋の“江戸っ子”がミンク場の臭いと不潔さに吐き気がして

「オレには無理ッス!」ってその日に退社を申し出たが何とか宥められて暫く働く事にしました。
そのミンク場で出会ったのが氏です。

氏はその15年程前に名古屋の繊維会社から単身北海道に乗り込んで日本で初めて企業としてミンクの飼育場を開設した人です。

その後の高度成長時代は正に「毛皮ブーム」でミンクのコートがヒャクマンエン以上した時代です。

飼ってるミンクが一匹2~3万した時代に10万匹も・・・・

よくよく聞いたら氏は毛皮業界の天皇陛下でススキノでも有名な方でした(ススキノのオネェ

チャンは皆さんミンクのコートが・・・・の時代です)

そんな氏に出会い私が独立後は最大のお得意さんで畜舎だけで無く全ての設備工事を一切任せて頂きました。

心と身体の大きな方で畜産のイロハだけで無く人生訓を教えて頂きました。

あの日あの場から逃げていたら今日の自分が無かったって事です。

                               シャインミンク 代表取締役 太田 享氏 2012.03


47)企業養鶏の先駆者


札幌市近郊の岩見沢市郊外で“養鶏場”を経営していた方です。

私が会社設立後は親会社の浜田氏のお陰で北海道の殆どの養鶏場のオヤジさんと面識が出来ました。

氏は何でも“中古”を集めて来て自分で作ってしまう方です(当時の養鶏業界は専門の設備会社など無く殆どがそうでした)

氏は北海道の米農家に見切りを付けて企業養鶏(それまでの養鶏は農家が副業程度で飼育していた)に乗り出した先駆者です。

鶏糞を毎日運び出す必要の無い高床鶏舎を導入した開拓者です。

私の父親と同じ歳(大正6年生)の母親が“ヒナ”担当で親思いの立派な方(親不孝物の代表として羨ましい思いです)で信仰宗教の勉強を何時もしていて親不孝物の私に人間の行き方を教えてくれた方です。

年に何度も箱(10キロ)で卵を届けてくれる大切な恩人でした(デシタと言うのは母親の死後

その後の合理化に追いつかず平成15年に廃業されました)

現在は健康食品の販売会社を作って年に何度か薦めに来ますが・・・・・

                               元有倉ファーム 代表取締役 有倉信義氏 2012.03


48)良き協力者


北海道に来て3年目に会社を設立した際にイの一番に資材を提供(掛売り)してくれた恩人です。

大正時代から続く東京の実家では仕入先に不便を感じた事など一度もなかったがイザ見知らぬ地で新会社を作ったら仕入先の確保が大変の事に気付きました。

「金さえ持ってくればウチは何時でもお売りしますよ!」って・・・そんな会社ばかりでした。

氏は在日朝鮮人で戦前に両親と幼い頃一緒に日本に来て苦労をした方です。

畜舎の屋根に張る波板鉄板の製作会社で北海道の畜舎の殆どは氏の会社の製品です。

以前私が勤めていた会社(オヤジが計画的にトリコミをやってトンヅラ)にもかなりの売掛金が無になったが、挨拶に行った日に快く資材の掛売りに何の担保もなく私の人柄を信用してくれました。(同じように名古屋のケージ製造会社も協力してくれました)

以後一度も資金ショートせずに今日まで来れたのは偏に氏のお陰と思っています。

無類の金持ちで何時も百万円を持ち歩いている方でした。ゴルフとオネェチャンの大好きな方で良き“ゴルフの敵”でもありました。

在日朝鮮人なので海外旅行が出来ないので冬になると日本各地の暖かいところにゴルフ 三昧の旅行に付き合わされたものです。

数年前に突然自宅と会社を売り払い“行方”解らなくなりました。半島(特に上)の人間を良く言う人は少ないが氏は別人でした。

是非とも再会して当時のお礼を言いたい方の一人です。

                                     元三和商会代表取締役 宇野正夫氏
2012.03


49)同級生


氏は中学時代の同級生で唯一現在まで続いている親友です。

私の入学した中学(墨田区菊川町)は親の意向で越境入学で所謂地域外の中学でした。

竪川中学→両国高校→東京大学(慶応.早稲田・・・)が下町のエリートコースでした。

私は早々にエリートコースから脱落してしまいましたが氏は両国高校→慶応の経済を卒業して家業(横川沿いで江戸の時代から続く材木問屋)を継いだエリート中のエリートです。

余談ですが最近藤沢周平の時代小説に嵌り暇を見ては読んでいますが本所深川の生まれ育った地名がやたら出て来るので中学時代を思い出しています。

社会に出てからは鉄工所と材木屋の息子で日本の高度成長に無くてはなら無い家業でお互い励ましあったものです。

現在は京葉線「新木場」の駅前に本社と倉庫を移転し全国に製品を供給する立派な会社に変身させた“成功者”です。

昨年超頑固親父の“お別れ会”にも駆けつけてくれました(氏の父は卒寿を過ぎて尚健在だそうです)

お互い何時までも健康で第一線で頑張りたいものです。

因みに↑の写真は竪川中学の隣の本所中学で一学年上の方でお互い中学時代は野球部で何度か試合をした筈ですが奴の当時の事は記憶にありません・実に惜しい事をしました)

                                   高広木材 代表取締役  渡辺 昭氏 2012.03


50) 竹馬の友


氏の自宅は私の実家は明治通りを挟んで歩いて3分程の距離で焼け跡が残る小学校一年からの同級生です。

中学はそれぞれ別の学校でしたが高校で又一緒になりそれ以来の“良きライバル”でした。
特に高校時代は先に亡くなった親友(人名録参照)と三羽カラスとして文武両道クラス全体をリードしたものです。

高校時代の彼の口癖は「人生ナニが大切かって金が一番!」でした(当時は家が貧乏で夫婦喧嘩の絶えない家で育った私は口に出しては言えなかったが“同感”でした・そう言う事を人生の目標として口に出して言える彼が羨ましく思ったものです)

氏の実家は2丁目で“ガラス製品の加工”が主体で「江戸キリコ」の伝承会社でもあります。
都内の有名デパートの売り場に今でも並んでいます。

3丁目の私の実家はバブル崩壊と共に超頑固親父が廃業に追い込まれましたが 氏は実家の家業を継ぎ息子達に任せず今でも代表取締役として頑張っています。

2丁目と3丁目の良きライバル会社でもありましたが先に廃業した3丁目の負けですネ。

ちょっとした思い違いで東京と北海道で最近まで音信が途絶えていたが父のお別れの会に招待状を出したら快く出席してくれ心の蟠りが一気に解消しました。

戦後の焼け跡を知っているガキの頃の友ってイイものですネ!

                                   堀口硝子 代表取締役  堀口三備氏 2012.03


51) ネットの友・其の1

これまでホームページ「頑固親父の薪ストーブ生活」をWebにアップしてこれを読んだ方がかなり多く訪ねてました。内地から来た方だけでも十指に余ります。

氏はワザワザ愛知県から薪割り機を見に来られた最初の方です。

温暖な地・三河では3階建ての3階に薪ストーブを設置して、薪ストーブが熱く燃え出すと扇風機を当てて温度を下げるそうです。

3階に設置(3階まで薪を運び上げる何てトテモトテモヤッテラレマセン)と扇風機のこの話し、何度聞いても意味不明なのです。

私の薪割り機を見て感動して同じものを作ると勇んで帰って行きましたが結局2年後に既製品を買ったそうです。

氏は余った薪があれば仲間に気前良く分けてやるのですがこれもイマイチ理解に苦しみます(貧しい北海道では薪はカネと同じです) 北海道と温暖な三河との気候の違いでしょうか?

世の中には常識では理解できない事が沢山有る事をオセエられました。

律儀な方で毎年春先に庭先で取れたタケノコを送ってくれます。

多分今年も・・・・・・

                                  市川 定男氏(市川組・二代目社長)2005.03


52)ネットの友・其の2


小樽薪病院 西先生

札幌の隣の小樽の病院の三代目院長さんです。

薪ストーブのMLで知り合ったのですが私のホームページを隅から隅まで読んで下されオマケに毎日"天声薪語"までご愛読頂いています。

薪ストーブに対して研究熱心な方で初心者・熟練者の質問にコレデモカと言う程親切丁寧に回答されている姿に常々敬服しています。

特に薪に付くカミキリムシについての観察・研究は其のうち"薪ストーブ学会"で発表されるのではないでしょうか?

昨年桐炭の原料の桐の木を届けにご家族で我が家に遊びに来られたのですが美しい奥様が印象に残っています。

奥様はバラの収集家で我が家の庭に名前も知らぬ木に目を留めて"バラ科のロサグラウカ"と教えて頂きました。

ロサグラウカは氏の庭に無く枝を折って挿し木にすると持ち帰られました失敗したそうです。

ナ訳で今年も何時取りに見えるのか今から楽しみです。

                              西  信之 氏 (小樽薪病院三代目院長)2005.03


53)ネットの友  その3 


ネットサーフィンで私のホームページに辿り着き長い付き合いが始まりました。

氏(と言っても中年のオバサンだけど)は九州佐賀県有田焼の有名窯元の“絵付師”でした。

祖母が同じ絵付師だったのでその道に入り数々の作品をン十年書き続けて来たが一介の絵付師で人生を終えたく無い思いから“有田焼大学”に入学して成型から釜焼きまで一から勉強をして自立した立派な方です。

練習用の小さな電気釜を据付けて“試作”と称して我が家に次から次ぎえと送って頂きました。

飾り物の本物の有田焼など我が家には縁の無い“焼き物”と思っていたが日常使って見て有田焼きが何ヒャク年も愛され続ける理由が解りました。

それは1300度で半日焼いた陶器は簡単に割れない事です。

お礼に雪祭りに招待したり娘さんを夏休みを利用して預かったり家族くるみの付き合いが続いています。

自立してからこのところ音信が途絶えてますが必ず成功する事を心から祈ってます。 


 

                                   佐賀県有田町在住 小柳華代子さん 2012.03


54)ネットの友・その4 

実はこの方北海道日高でサラブレットを繁殖している牧場主さんです。

ネットサーフィンで我が家に辿り着いたその足で私がエンライトを買った薪ストーブ屋に連れて行きその場で衝動買いをさせてしまいました。

「デ薪は?」って私

「薪はこれから裏山の樹を切って作るさぁ!」って牧場主

「この冬焚く分は今から切っても無理だ!第一アッタカクねぇ!」って私

「そうだべかぁ!」

「ンだ!仕方ないからこの冬の分はオレの薪小屋から好きなだけ運べ!」って私

それから一週間後奥さんと子供さんを連れて2トン車のロングで日高に運ぶ事3回!

実85)際自分で薪作りを始めて事の重大性が解ったのか、お陰で盆暮れお彼岸と色々のものが必ず届きます。

ガンの手術をして退院して落ち込んでいた先日も「日高の20間桜並木が開花したから明日送り迎えするから待ってれ!」って片道150キロを2回も往復してくれました。

ネットの友ってもイイもんですネ。

(北海道日高町静内在住  小倉スタッド社長 2011.05)


55)ネットの友・その5 


この方もネットサーフィンで頑固親父に辿り着きました。

ガンの手術をして退院した先日メールで

「親父さん術後大変だからGWに山の原木を切りに札幌市に行くから。」

「それはそれはアリガト!でも折角来るなら奥さんと娘さんも一緒にどうそ!」

「ホントですか?」


「足代だけ負担してくれれば寝る所と飯は心配すんな!」

テナ訳で新潟から往復フェリー(片道18時間)で家族4人で我が家に・・・・賑やかな3泊でした。

本業は別にあるが薪ストーブに嵌り今ではどっちが本業だか解らぬ程薪ストーブにのめり込んでます。

「親父さん!どっちが本業なのか?ウチの人に言って下さい!」って話しを毎晩毎晩奥さんから聞かされました

森林の多い新潟県は薪ストーブユーザーは沢山いるようですが“薪屋”で食うには大変のようです。

 

                            ( 新潟県五泉市在住 岩城環境社長 岩城正史氏 2011.05


56)新人(お隣)さん

 


ホームページ「頑固親父の薪ストーブ生活」の全てを読んで定年後を待てずに自身も薪ストーブ生活を始めた方です。

自宅にストーブを取り付ける前に150坪の土地(市街化調整区域だけど)を購入して薪集めを開始したものの思うように原木が集まらず我が家にやって来ました。

購入した土地が ナ・何と頑固親父のハタケの隣りだったのです。 縁が有ったのですネ!

建築資材の北海道の販売会社の現役のシャチョウさんで定年後を夢見て 薪ストーブ生活を始めたようです。

ナ訳で週末は何かと原木集めに協力しました。

我が家では当初“新人さん“と呼んでいました。

ナマラ金持ちなので土地だけでなく 軽トラ・ワゴン車・チェンソーは数台と外国製の斧と何でも手に入れ 斧で割り出す前にアメリカ製のエンジン薪割り機まで揃えてしまいました(当然頑固親父にも貸してくれるかと思ったら・・・返事が無い! 仕方ないので頑固親父は中国製をネットでゲットしました・お蔭でナマラ金持ちさんに借りを作らずあの世に逝けます・大きな声で言えませんが“金持ち程ケチ”ってホントですネ!)

3年程前からお世話した CCの原木をひたすら運び 週末は奥さんと二人三脚で何時の間にか120立米を超す薪を蓄えてしまいました。

そんな方を何時までも“新人さん“は失礼なので去年から“お隣さん“と呼び名を変えました。

と言う訳で 頑固親父もお隣さんに負けずに中国製27Tで薪作りに励み 何時の間にか命より多い在庫になりました。

生きて居る限り在庫を焚き切ってナマラ金持ちさんの餌食にだけは成らぬように長生きしたいものです。

                             札幌市清田区在住 長岡重憲氏     2015.12


57)カトチャン

 

昭和54年清田団地に越して来て以来の付き合いです。

付き合いと言っても当時はそんな深い中でも無く何となく顔見知り程度でした。

我が家の次男とカトチャンの娘が小学校の同じクラスだったのでその程度の顔見知りでした。

カトチャンの本業は自動車の“レッカー“と引き取った車の解体修理です。

自動車の事で何かと世話に成り出したのが長い付き合いの始まりです。

カトチャンも離れたところにハタケ用地を借りて好き勝手に作っていたが所詮素人でした。

数年前から私のハタケに弟子入りしました。

私の真似をして作ったら面白いように出来てからは中古のトラクターまで買い嵌り出しました。

もともと海が好きでモーターボートを4台も持って夏場は毎週海に出掛けています。

海の幸も時々頂き何かとお互いギブアンドテイクの仲になり現在に至っています。

頑固親父とカトチャンの接点はハタケ以外に何もありません。

カトチャン  ・120キロ               頑固親父・53キロ

カトチャン  ・娘 一人居る           頑固親父・娘 居ない

カトチャン  ・大酒大好き            頑固親父・下戸

カトチャン  ・別荘 寿都にある        頑固親父・別荘はとうとう持てない

カトチャン  ・釣りが大好き           頑固親父・釣りは殆ど出来ない  しない やらない

カトチャン  ・モーターボート4台所持     頑固親父・モーターボート持って無い

カトチャン  ・ゴルフ出来無い         頑固親父・ゴルフ大好き

カトチャン  ・薪ストーブ持って無い      頑固親父・薪ストーブ生活満喫

カトチャン  ・チェンソー持って無い      頑固親父・チェンソー数台所持

カトチャン  ・薪割り機持って無い       頑固親父・薪割り機有る

カトチャン  ・麻雀出来無い          頑固親父・麻雀大好きだった

カトチャン  ・車関係初め取得免許30数件  頑固親父・普通自動車の運転免許だけ

カトチャン  ・海外旅行ビジネスは初     頑固親父 何時も大概大体殆ど多分ビジネス

   

               札幌市清田区在住 カトーレッカー社長 加藤 勉氏     2015.12


58)オガサワラ流  


氏は私が北海道に来て設立した会社の客先のナンバースリーの重役でした。

仕事の契約上の付き合いはその上のナンバーツーのジョームと行いナンバースリーさんとは現場での折衝が主な付き合いで金銭にあまり関係ないのでお互いフランクな付き合いでした。

ゴルフは年に数度なのでカラキシ下○糞でした。

私が業界の仕事から手を引いてからは年賀状程度のつきあいでしたが5年前に胃がんの手術をしてからゴルフに誘われたのがキッカケで又長い付き合いが始まりました。

お互い滅多な事では断らず年間50回は共にラウンドしています。

今年満80歳になるが至って健康で毎日10キロ以上ジョギングして鍛えているそうです。

ゴルフは相変わらず“へ○くそ”で50センチのパターを面白いように外します。

カップの淵で測ったように止めるのです。

これを仲間たちは“オガサワラ流”と言って笑います。

本人は至って真剣で「俺は健康の為にやってるんだ!」が口癖でコンペでは必ず何所かで“イカとタコ“に捕まってしまいます。

最近は高反発の道具を買い替えて飛距離に生き甲斐を見つけたようです。

最近は時々オーバードライブされてしまいます。その時の“ドヤ顔“ったら!

「ゴルフってのは飛ばしてナンボで無く 上がってナンボなんだ!」って

我々仲間は一度でイイから氏を優勝させようと秘かに応援するのですが当人が必ずどこかでズッコケて未だ実現していません。


去年は松山英樹と同じ“スコッティキャメロン“を入手し 「ゴルフの腕は金で買える!」と豪語して秘かに“オガサワラ流”脱会と念願の“優勝“を目論んでいるようです。

来シーズンこそは・・・・・ドヤ顔がみたいものです。


あと何年お互いにグリーンに立てるか秒読みの年齢ですが氏(80歳)を目標にゴルフ人生を全うしたいものです。

      

動画の最初が小笠原さんで次が新日本海フェリーの元重役さんでその次が手打ち蕎麦の師匠で最後が私です。

                            ホクリヨウ 元取締役 北広島市在住 小笠原定由氏    2015.12

 


59)小説家

  


氏(と言ってもオネェチャン もといオバちゃんで 北海道自民党の女代議士ではありません)が我が家に出入りして数年になります。

我が家に来たキッカケは忘れたが 忘れた頃にやって来たりメールが来たりで着かず離れずの関係です。

頑固親父の手打ち蕎麦で繋がっているようなものです。 毎年発行される“雑誌“に小説が掲載される度に届けに来ます。

頑固親父的には“ナオキショウ“を期待していますが 今は亡き父親が国鉄マンだったので手がける小説は“鉄道“が多いのです。

一人娘で我が儘に育った挙句札幌市に嫁いでン十年!

現在は 生まれ故郷の函館の介護施設に入所している母親を見舞いと介護に特急列車か夜行バスで隔週で函館通いをしています(所謂親孝行って奴で)

実は頑固親父が大学を出て室蘭の会社に就職して初めての現場が函館市で当時の建物を冥途の見納めの積りで 去年は氏の案内で函館を旅しました(ついでに氏の母親にもお会いして)

大学を出て50年 ものの見事に昔の建物は新しく建て替えられていました。

函館山の景色は当時のままでしたが 50年の歳月って凄いものですネ

                               札幌市在住 小説家 岩崎 智子さん             2015.12


60)余市の孫娘

  


3年前にヤフオクで中国製の薪割り機をナナマンゴシェンエンで入札したら落札してしまいました。

ナ訳で頑固親父手製の薪割り機が不要になったので天声薪語で引き取り手を募集したら何名かの応募の中で一番律儀だった方を選んで差し上げる事にしたのが氏です。

引取りに来た日にワゴン車の中から5.3.1歳と三姉妹が出て来てビックリ仰天しました。

それから年に3~4回は我が家に立ち寄ってジジババを遊んでくれます。

我が家の孫は3人とも男で内地にいるので滅多に逢えないので余市の三姉妹が“孫娘“のように来るのが楽しみです。

孫娘達のお目当ては頑固親父の“手打ち蕎麦“で何時も腹一杯食って帰ります。



氏の本業は海洋審査会社に勤務する“潜水夫“で北海道の漁業調査とついでに水の中の写すプロの写真家です。

30代でニッカウヰスキーの余市町郊外に高価なログハウスを建てて薪ストーブ生活を謳歌しています。

薪には不自由しているらしい!嫁に行った手製の薪割り機を大切に使ってくれているのが頑固親父にはウレシイです

                                          余市町在住 (株)海洋審査 鈴木芳房氏  2015.12

 


61)パソコンの先生

  


大阪の元市長に良く似た頑固親父のパソコンの先生です。

還暦を過ぎてからパソコンに出会いホームページを持ってからは更新とトラブルの為に先生が居ないと出来ません。

パソコンのイロハを全く知らないので(今更知ろうとも思わず)ホームページを維持する為には先生が必要なのです。

最初はプロの先生でしたがその後は大学時代の同級生を頼っていたが東京なので何かと不便なので別の先生を見つけたがその先生が数年前に急死して紹介されて以来の先生です。

最近は“遠隔操作“が確立されて何時でも電話一本で簡単にトラブルを解消してくれます。

助かるのは何時電話しても“イヤな様子“を全くせず親切丁寧に要求を満たしてくれます。


数年前に若い奥さんと再婚して現在2歳の娘さんに振り回されています。

ご自身の息子さんにも御子さんが出来て娘さんとお孫さんが“同級生“だそうで! 

札幌市の中央区に土地を買って事務所兼住宅を建てて羨ましい限りです。

人生やり直せるものなら私もあやかりたいものです。


払う物さえ払えば私が死んでも先生が生きて居る間は「頑固親父の薪ストーブ生活」はネットから消える事が無いそうです。

頑固親父が毎朝“天声薪語“を更新する一番大きな懐刀です。

先生に見放されない限り天声薪語の日々更新に頑張る積りです。

良い子の皆さんもパソコンで困った時は恥ずかしがらずに先ず 電話してみては? http://www.sapporo-pc.com/

                                         札幌ピーショットコム社長 山崎 朝之さん 2015.12


62)ゴルフ仲間

 


もともと頑固親父は女性とゴルフをするのが苦手です。

ゴルフを始めた若い頃一人でメンバーコースに行き“女医さん三人組“の中に入れられて一人負の惨めな思いがトラウマなのです。

以後たまに女性と一緒に回っても然程上手い方に出会う事は有りません。

寧ろ下手糞が大方でヘタクソのお世話(ボール探し・・・)が苦手なのです。

特に北海道のオンナは下手糞が多いです。下手だけでなく男を下に見る生意気が多い(医者の妻とか)

そんな中で彼女だけは男勝りのゴルファー(スコアーがです・容姿は至ってオンナッポイですが) です。

年に数度お互い忘れた頃メールが入りラウンドしています。 昔一緒にタイに行った事もあります。

私のゴルフ仲間は彼女の事を“モトカノ“と思っているがそのような事は全く寄せ付けない人です。

今年家内が15年振りにゴルフを再開したのも彼女のお蔭です。

来年古希らしいが何時までも良きゴルフだけ仲間で居たいものです。

     

           

                                       札幌市豊平区在住 大浦静子さん   2015.12

 


63)なぽちゃん

 


なぽちゃんってのは我が家の斜め向かいに住む主婦です。

なぽちゃん一家が我が家の斜め向かいの中古の家に越して来たのは10年ほど前の事です。

なぽちゃん一家は二人の娘さんと親子4人暮らしです。

なぽちゃんの旦那は大手の携帯電話会社の札幌市支店に勤める中堅サラリーマンです。

なぽちゃんが越して来た頃は下の娘さんはまだ生まれていませんでした。

二人の娘さんが可愛いので何かとお付き合いが始まりました。

東京の実家の件で夫婦で上京する度に困るのが“四匹のワンコ“の世話です。

当初は夕日ヶ丘山荘のお手伝いに来てくれた方にお願いしていました。

しかし朝昼晩となると家から離 れているので非常に気が引けていました。

そんな頃になぽちゃんが「いいわよ!」ってワンコの世話を引き受けてくれました。

その後父親の旅立ちと法事と裁判の件でますます上京の機会が増え大いに助かっています。

なぽちゃん一家もワンコが好きでとうとう高価な“ブルドック犬“を飼いだしました。

ナ訳で最近は実家だけでなく海外旅行も安心して行けるようになりました。

今年の春からご主人が道東の支店に転勤になり今度は何かと夕食のおかずをおすそ分けして喜ばれています。

遠くの身内より近くの他人」ってホントですネ

                                            札幌市清田区 斉藤奈保子さん 2015.12



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