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頑固親父の自己紹介

頑固親父の自己紹介  中 編

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春が来た!息子に嫁が来た!ついでに秋田から孫が来た!

山荘を閉館した頃二番目の息子が家内を元気つけるイイ話を持って来ました。
翌春に漸く世帯を持ってくれました。
息子の結婚式のお陰で疎遠になっていた長男にも再会出来ました。
嬉しかったのは"二人の孫"に会えた事です。
孫に「おじぃちゃん!こんにちは!!」って言われた瞬間に全ての思いがすっ飛んでしまいました。
元気な二人の孫を産んで育ててくれた長男の家内にタダタダ感謝です。
入院中の父親(超頑固親父)も出席して二代目から五代目まで揃いました。

何はともあれ我が家にもようやく春が来ました。

春だけでなく孫まで付いて来ました。目出度し目出度しです。

頑固親父69年の人生で最高の日でした。

長生きはするものです。                   2010.03

三代目に就任 工場解体

2007.05に実家の会社を引き受けて代表取締役になってからは父親(超頑固親父)の兄一族と工場跡地の奪い合いに巻き込まれました(4度の裁判まで起こされて)(それまでは工場跡地を駐車場として収益を得て父親と番頭で山分けしてました・しかし末の妹が気付いた時には番頭にシコタマ使い込まれ 挙句長女と砂町一族が結託して工場跡地まで売却される寸前でした)
更地だから土地の奪い合いになるので有効利用を1年半に渡って検討の結果、解体してスーパーマーケットを作る事を取締役会で決めました。
何が大変かと言うと父親(超頑固親父)が建設した工場解体の説得をするのが一番大変な作業でした。とうとう父親(超頑固親父)に自らが50年前に作った工場が解体される現場を見せる事は出来ませんでした。   (2010.04)

ヨークマート建設 地鎮祭

地鎮祭は秋田から長男の家族も上京して新たな出発です。 二代目から5代目まで揃いました。
年内に完成オープンの予定なので竣工式もこのメンバーで迎えたいものです。                            (2010.05)

胸像完成

事務所に鎮座していた胸像だが殆ど開かずの事務所(現在の実家の東京事務所は非常勤取締役だけで社員はゼロの為)に狭い室内に閉じ込めて置くのが忍びなく事務所の前に置きました。
ところが台座が木製(高級そうな合板材)なので雨風に負け塗りが剥げて来ました。
近年それが気になって仕方ないので知人の紹介の石屋さんと相談の結果“御影石”で作り直しました。

因みに祖父(初代)の胸像を建てたのは父(二代目)で父の胸像は父が生存中
私(三代目)が作りました。
それぞれの銘板は↓の通りです。

正木愛次郎 翁                   S41.10.10

明治15.1.15相模の国小田原城下に山田孝之助次男に生まれる。
21歳の折青雲の志を志し上京し克苦精励あらゆる辛酸を舐め妻マセを得て大正5年3月現正木鉄工所を創立せり。
性格は剛健寡黙果断にして正義博愛の念に富み且つ卓説せる識見を有す。
東京震災記念塔を始め諸種の工事を施工し東都はもとより北海道九州朝鮮にまでその業績を拡む。
太平洋戦争下病躯を押して会社経営にあたり昭和20.3.10東京大空襲の戦火を被り霊界に去る。


当たり前だけど祖父の銘板は父が書き父の銘板は私が書きました。

正 木 健 三 翁  株式会社正木鉄工所 二代目社長  平成23.4.16

正木鉄工所が設立された翌年の大正6.11.21深川毛利町にて愛次郎の三男として生まれる。
幼少の頃から鉄工所の跡継ぎとして愛次郎の義弟に技術を仕込まれる。
昭和20年太平洋戦争敗戦で両親と全ての財を失うが 兵役より戻った下町の焼け跡から裸一貫から正木鉄工所を再興し 戦後の日本復興に寄与する。
昭和33年にはMA式鉄骨工法を考案し 特許を取得して全国に広め その後の鋼構造物に大きく影響を与える。
昭和40年代の高度成長期には都心のビルや大規模建造物 全国の高速道路の橋梁等の製作に多大な貢献をし 初代の意思を継ぎ鉄工所一筋に生涯を捧げる。
昭和55年には江東区の中小企業約500社を集め 江東区工業連合会を設立し初代会長に推され その重責を果たす。
他方 永年保護司として社会に貢献し 昭和58年に法務大臣より表彰状を そして平成8年には勲五等瑞宝章の褒章を授与される。
趣味は書道で「江雲」の雅号でその道の大家として手解きを受けた弟子は数知れない。
妻ヒサとの間に二男三女を育て 平成不況で一時休業した鉄工所の再開を夢見ていたが望み叶わず子孫にその意思を託し平成23.3.1 満93歳で永眠する。


これで建物が有る限り安心安全 私が何時・・・・です。  (2011.10)

夕日ヶ丘山荘売却

山荘を閉館しても家内の喘息は治まらず一年近く経った2010年7月に"再開"をする気力体力が芽生えず不動産屋に相談の結果売却を決意しました。
閉館以来自宅の目の前にある建物を毎日見て暮らす辛さは当人しか解らないものです。
自分で建てて自分で解体など・・・・誰か引き継いで下さる方をネットで募集したが皆さん帯に短し襷に長しで結局不動産屋さんが買い取ってくれる事になりました。
現在は不動産屋さんの紹介で新しい事業主が同じ夕日ヶ丘山荘って名前で賃貸し同じ事を再開して漸く満室になったようです。     (2010.09)

2010 ヨークマート完成 落成式

工場跡地にスーパーマーケット「ヨークマート」が予定通り開店しました。
残念ながら父親(超頑固親父)は竣工式、開店のセレモニーには体調不良で出席出来ませんでした。
時を同じくして父親(超頑固親父)の兄一族(砂町一族)から持ち株の買取交渉も妥結し全てが父親(超頑固親父)一族のものになりました。
砂町一族の持ち株の買取がまさか実現するとは想像もしていませんでした。
頑固親父夫妻と二人の息子の預貯金を集め何とか買い取る事が出来ました。
ヨークマートの二階には当社の事務所も作り此処に会社が今でも存在する証を残しました。
ついでに父親(超頑固親父)の「胸像」も作り生きている内に当人に見て貰いました。
当人は照れくさそうで「ついでにお前のも作ったらどうだ!」ダト
何はともあれ目出度し目出度しです。        (2010.10)

2011 突然の胃ガン宣告

父親(超頑固親父)の兄一族に株式の代金を送金して「やれやれ!之でオレの役目も90%終わった!」と思いました。
2011.01は所属するCCのベトナムツアーゴルフに参加しました。
帰国後風邪を引きその後胃がやたらムカムカするので近所の病院で生まれて初めて"胃カメラ"の検査を受けました。
2011.02.28突然"ガン宣告"を受けました。
「えっ、オレがガン?嘘だろう!悪い夢だろう!」って心底思いました。
神の書く人生のシナリオの凄さにただただ脱帽です。
ガン宣告を受けた翌朝に父親(超頑固親父)が昇天し(世間ではこのような事をフンダリケッタリと)ガンの入院手術は後回しにして取り合えず密葬の為に上京しました。
体調不良の中密葬を何とか済ませそのまま東京の「国立がん研究センター中央病院」で開腹手術を行い胃の3/4を切除しました。
3/08に国立がん研究センター中央病院に入院して3日後の3/11午後突然大地震が発生しました。
入院見舞いに来た西山夫妻と「俺達今日死ぬのか!」「だろうな!」と会話を覚えています。
その後のニュースでまさか津波や原発が・・・・・
2011年は術後の転移予防の抗がん剤服用で日々無気力な日を送ってます。

皆さんにお知らせ!
ある日突然ガン宣告を受けたら国立がん研究センター中央病院18Fです。
何が素晴らしいって医師と看護婦さんに決まってますデス  (2011.03)

超頑固親父昇天 密 葬

ガン宣告を受けた翌々日に札幌市の病院に入院の予定が翌朝に父親(超頑固親父)が息を引き取ったので入院を先送りして取り敢えず上京して密葬の儀を行いました。
密葬は生前より父親(超頑固親父)の意向で自宅(8畳と6畳)に30人も入り大変窮屈なお葬式でした。
密葬なのにタイからはマノーさんまで来て下さいました。
通夜告別式と何も食えずそれはそれは辛いものでした。
父親(超頑固親父)の昇天は「何時逝っても・・・」と一年前から医者に言われていたので覚悟は出来てたので 別段動揺も悲しみもありませんでした。
東京に負けて親子三人で北海道に移り住んだ時からの重荷がようやく降りた思いでした。 (この気持ちだけは誰にも理解出来ないと思います)
勝ったとか負けたとかの次元でなく親子の壮絶なドラマだったのです。
人間ってのは難しい事は抜きにして「命を繋ぐ」 事だったのです。
昭和20年3月10日に行方不明になった祖父母が私を生かせてくれたのです。
そのお陰で五代目まで繋がったのです。
神の書くシナリオの凄さにただただ驚きです。       (2011.03)

家内の喘息

私がガンの宣告を受ける前後から不思議な事に家内の喘息止まりました。
何時再発するか針のムシロですが何故か止まってます。
原因が解らないので"難病"なのでしょうネ
これも神の書くシナリオなのでしょうか?         (2011.06)

ハタケは中止

夕日ヶ丘山荘開園と同時に本職に弟子入りして始めたハタケだが抗がん剤の副作用で今年に限り ハタケは中止する事にしました。
健康の為にハタケだけはと回りは言いますが当人にはその気力がありません。
ただし去年集めた原木の処理は何としても処理したい思いです。
去年集めた原木は"焚いて"あの世に行きたいと願ってます。(2011.06)

父親(超頑固親父)のお別れ会 あの「東京会館」で挙行





東京会館から見える皇居



2011年3月1日に亡くなった父の「お別れの会」の挙行の様子。
お別れの会は息子の手配で東京駅々前のお堀端の「東京會舘・9階ローズルーム」で行いました。



父の生前の付き合いのある方は殆ど他界してしまい果たして何名の方が来て下さるのか皆目見当も付かず不安な催しでしたが上は国会議員の先生から都議会議員及び江東区長と区議会議員まで来て頂き凡そ200名の方が出席され思いの外立派な「お別れの会」を出来ました。
息子として由緒有る「東京會舘」で父の見送る会を挙行出来た事が何より一族としての誇りでもあります。
実は写真をよ~く見て頂くと会場のバックに"掛け軸"が見えます。
書道が趣味の父親(超頑固親父)が生前に自分が書いた気に入った書を表装して巻物にした「掛け軸」が押入れの中にン百本も眠っていたので、この際に参加された方に宜しかったらお持ち帰り頂く事を思いつきました。
表装代は凡そ3~5万程度掛かってる筈だが身内としては"ネコに小判"でやがてはゴミとして処分する以外になさそうなのでこの際展示しました。
出席された皆さんが展示した全てをお持ち帰り頂きホットした次第です。
友人知人にお持ち帰り頂き何よりも父が一番喜んでいると思います。
掛け軸をお持ち帰り頂き「親孝行」をした思いです。

 

↓の動画は東京会館 お別れの会です。                 

父の略歴紹介

 

ヨークマート 代表取締役 川上 氏

友人代表 三上 誠 氏

衆議院議員 柿沢未途 氏

正木 正一 答礼

掛け軸をお配りする

実は“お別れの会“の写真と動画は頑固親父の大学の同級生の東紀夫氏(人名録参照)が引き受けてくれました。
しかし半年後に頑固親父と同じ“胃ガン“の告知を受けその半年後にはあの世に逝ってしまいました。
実に惜しい親友を失いました。神の書くシナリオを・・・・・2012.11          

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