天声薪語ブログ

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頑固親父の自己紹介

夫婦ツーショット

昭和16年(巳年)生れのB型人間・77歳

昭和20年3月10日の東京大空襲で(現在の江東区東砂町で)戦火の中母親と二人奇跡的に生き延びる、私4才母親24才(昔の女はスゴイ)この日に人生の全ての「運」を使い果たしその後の人生で一度も「運」に恵まれた事が無い! オット失礼↑の方(頑固親父のイイナリ女房)と巡り会えた事は何よりの”運”でした。
ナ訳で生涯’妻’はこの方一人に決めてます。            (2002.06)

昭和39年(東京オリンピックの年)東京新宿の某三流大学の建築学科卒業後、超頑固親父の命令で
『若い時の苦労は銭出して買ってでもスレ!』
『若い時にゃぁ他人の飯を食え!』

忍耐を学ぶ為に北海道に渡り室蘭市の造船会社で3年間修行中(!)に↑の方に巡り遭いました。
実は私の身内の殆どは室蘭で”出来た”って思い込んでますがトンデモハップンです・内気な青年は片思いのまま帰るには後悔すると決心し、室蘭から東京に戻る際に悩んだ結果「何時か必ず迎えに来るから!」って思い切って言って見たがケンモホロロに断られました・アントキはホント落ち込んだ・青函連絡船から飛び込んじゃおうかと真剣に思いました・当時流行っていた”霧の摩周湖”を聞くと昨日のように思い出されます)
東京に戻ってからも忘れられず毎日毎日手紙を書いて親友(人名録25参照)の力を借りてようやく「ン!」って言わせました。
だから結婚式まで指一本触ってません!これほんとインデアン嘘ツカナイ!
今頃になって修行の大切さをシミジミ感じています。       (2002.06)
修行とは女房を見つける事なり・・・・頑固親父の一言
実は家内の母親はソレハソレは働き者で寮母として3年間世話になりました。 その娘ならキット働き者で私は絶対に幸せに成れるって思って居る内にホントに惚れてしまいました・・・・片思いだけど!
家内の母親については天声薪語2009.3.5~6に・・・・ヨメを貰うならオヤ見て貰えって!昔の方はイイ事言いますねぇ!
(美人は三日で飽きるがブスは三日で馴れるって!言う格言もあるが結婚以来一度もそのように思った事等ありません・これもホント)
(2002.06)

現在の家族

妻(頑固親父のイイナリ女房)と犬4匹(キャバリア夫妻とヨークシャテリア夫妻)と自宅向かいにある高齢者共同住宅~夕日ヶ丘山荘~の10人のお年寄りたち
左からワルコ・ズルケン・チビメル・バカアレマキ......これで(1㎡)3日分

二人の息子は・・・?

二人の息子は(天声薪語過去ログ2009.08.23と09.06の如く育てたので)自立して、秋田と東京で生活しているがほとんど音信不通。
便りのないのは元気な証というけれど モノには限度ってものが・・・・・・
まあいいか、ガマン、ガマン↓が居るじゃんか!
(4人の写真で家内の後ろに立っているのが”ヨメを貰うなら・・・・の働き者のハハオヤ”です)

鉄工所の3代目のハズが・・・?

北海道で3年の修行を終え、実家(東京下町で80年続く)の鉄工所の3代目の筈が、両親と折り合わずたった7年で見切りをつけて、昭和49年に妻と5歳の長男を連れて札幌市に移り住み何時かはまたと思っているうちに還暦を超えてしまった。 85才になる父親は現在でも社長を私の弟に譲らず、「頑固一徹」現役でピンピンしている。もしかしたら「私は最高の親孝行息子?」ではと思う事がある             (2002.06)

ところが平成17年元旦に三代目を任せた筈の弟(56歳)が急逝してしまいました。
平成19年の5月に突然超頑固親父から呼び出しが掛かり株主総会の議決を得て急遽3代目を任されました。
『売り家と唐様で書く三代目』 超頑固親父92歳私68歳です。
ケド『三代続けば末代続く』とも言われています。 あぁ~~あ!
人の運命ってのは絵に描くようには行かないものですネ       (2002.06)

現在の仕事は?(晴薪雨読・・)

収入はネンキンでイワユル『サンデー毎日・国家公務員』って奴です (2002.06)

北海道での実業は

昭和49年11月に北海道に移り住み 3年後の昭和52年12月には資本金200万円の会社を設立して代表取締役になっていました。
移住して1年半アッチの会社コッチの会社を渡り歩き最後に辿り着いたのが畜産関係の設備会社でした。
「鉄骨技術者募集!」を職安で見つけて紹介され“畜産の施設“は頑固親父には全く未知の世界でした。
何より糞尿の匂いに参りました。
当時は畜産を営んでいる農家がアチコチの施設を真似して自分で作っている時代でした。
1年半後に代表者が失踪し客先(後に“エアドゥ“を立ち上げた浜田輝男氏)と仕入れ先と下請け業者の要請を受けて「畜産施設施工」の専門会社を立ち上げた次第です。
北海道に移住して浜田輝男氏に出会った事が “運命“でした。
主として“養鶏業界“だが時には牛舎も豚舎もミンクも手掛けました。
ノーキョウとホクレンに往復で手数料を取られた農家養鶏が破綻して専門の養鶏場がアチコチに出来た時代でした。
東京の実家の鉄工所では高速道路の橋桁やビルの鉄骨製作など年間5000トン前後の工場長で三代目だったプライドが有ったが北海道の大地では“畜産“が主体でした。
東京のプライドを捨てて北海道中の畜産業者から依頼された施設建設で年間20万キロ15年間北海道中を走り回り何時しか“糞尿の匂い“が銭の香りになり二人の子供を大学まで出す事が出来ました。
人生で一番充実した15年間でした。
しかし家内の甲状腺ガンの手術後の介護とバブル経済崩壊の円高の影響で外国の既製品が大量に輸入されて頑固親父は業界に見切りをつけ資材販売に縮小して会社を守りました。

↑のような“施設“を北海道中に200前後施工しました。  (2018.09)

夕日ヶ丘山荘建設

悠々自適の老後の入口でこれからの生き甲斐として少しでも社会に貢献を考えました。

1998年自宅の向かいの空き地を利用して高齢者の為の共同住宅を家内と相談の上建設しました。

管理人は家内で10室10名総工費?千万円 介護保険も無い時代でした。

夕日ヶ丘山荘のお蔭でマスコミに何度も・・・・

挙句は“夕映え色を共に“と題した1時間のドキュメントも放映されました。

現在は~夕日ヶ丘山荘~のオーナーとして、高齢化社会に少しでもお役に立て、夫婦二人で生きがいを持って生活できる事に充分満足している。                     (2002.06)  

春:薪作りと山菜採りとゴルフと夕日ヶ丘山荘
夏:ハタケ(300坪)とCCと阪神タイガースとゴルフと夕日ヶ丘山荘
秋:薪作りとキノコ採りとゴルフと夕日ヶ丘山荘
冬:二台の薪ストーブの係長(24時間勤務)と夕日ヶ丘山荘
ってバカな事を言ってますがこれでも一応三つの会社のシャッチョゥさんです
(天声薪語07.07.26参照)

ゴルフ・・・・

昔:シングル 10年前:ダブル 今:目標89
一時期ゴルフに才能の限界を感じ、草野球に没頭した時もあったが、毎年欠かさないのがバンコックのゴルフツアーです。
此の歳になっても誘ってくれる仲間が有るってのが一番です。勿論ニギリの世界もです。
68歳にしては・・・・・・・って褒められるのです↑。
タイはキャディーが何と言っても可愛いです。所謂カッパエビセンって奴で、日本国内でキャディと→のような写真を撮ったら出入り禁止・除名・セクハラ・・・です。
実はゴルフより・・・・嘘です。 それにしても美しいスイングですね・冗談抜きで・・・(2002.06)

健康・・・・

何が嫌いかって、病院と医者と注射と薬が大嫌いで、この何年も掛かった事なし(小学校の2年生までは一年の半年は病人だったが3年生の夏に全身大火傷をして九死に一生を得てからは現在まで大病ナシで生きて来ました。
ナ訳で健康診断もやった事なし。
病院とか医者に掛かるくらいなら死んだほうがマシと真剣に思っている。

超頑固親父(中)と頑固親父(右)の(左) (看板の題字は超頑固親父が書きイチイの一枚板に彫刻)
写真上は昭和20年正月(2月後の東京大空襲で祖父母は行方不明)です。
祖父 愛次郎  明治15年1月15日生まれ
祖母 マセ   明治18年9月15日生まれ
母   ヒサ  大正10年3月15日生まれ
本人      昭和16年7月15日生まれ 何の因果か4人とも15日生まれです。

ヘビィなスモーカーだった!

18の時から吸い始めたタバコが止められず自他共に認めるヘビィスモーカーだ!
今でも1日ピースを2箱半(凡そ50本)!
惨めなのは一本吸うたびに”止めよう!止めたい!”と思いながら・・・・・
*但し2004年4月に突然 人生 ン回目の禁煙に成功!
「最後の一本はもう吸った!」
「今は吸わない・今だけは吸わない!」
この一念で3年過ぎました・今度は今度こそは本物?  2007.04

囲碁・将棋・マージャン ・競馬・パチンコ・オネェチャン・人妻

・囲碁はパソコンで覚え、いまだに人と対戦したことナシ
・将棋は小学校3年生で覚えそれ以後上達ナシ
・マージャンは社会に出てから嵌り家一軒分は・・・・
・競馬はアカネテンリュウの頃嵌りハイセイコウで卒業しました
・パチンコはコンピューターになってから知りません!
・オネェチャンには何時も騙され通し(コンドと何時かって奴で)
・人妻は夢と小説の世界の話しですネ

パソコン

パソコンはど素人(還暦を過ぎてからの挑戦はシンドイ!カタカナ語が覚えられない!)
しかしパソコンとホームページのお陰で全国に沢山の知人が出来ました。2001年に夕日ヶ丘山荘のホームページをアップしました。
2002年に”頑固親父の薪ストーブ生活”のホームページを立ち上げ2004年に「天声薪語」をアップし”一日一言、一日一枚”を続けている・継続は最大の力なり!
(近頃は猫も馬鹿もブログとか言って始めるが毎日書かないブログなんて・・・・と思っている)        2007.04   

家庭菜園 300坪開墾(開拓農民の苦しみが解かりました)

2001年ハタケの師匠から独立して自前の農場で薪作りとハタケの為の1000坪をもちました。

毎年「ジャガイモ・ナス・トマト・きゅうり・枝豆・金時マメ・花マメ・インゲン・大根・タマネギ・かぶ・レタス・サラダ菜・スイカ・トウモロコシ・サツマイモ・ピーマン・ししとう・なんばん・にんじん・きゃべつ・はくさい・・・・」正直マキをやっている暇がなくなりました。

家庭菜園

炭焼き

薪のお陰で炭焼きに挑戦、これもやり出したら嵌りますが此のハタケ住宅地に開発されその後焼く機会がありません。
1999年は家庭菜園の師匠黒田さんと炭焼きに明け暮れました。

この年の12月に母親が脳梗塞の挙句旅立ちました。

家庭菜園の師匠と炭焼き

手打ち蕎麦

札幌手打ち蕎麦愛好会顧問 小幡栄氏が経営する店に押しかけ極意を盗み、苦節3年 (2002.10)全麺協の認定試験「初段」に合格する事が出来た。
蕎麦打ちは奥の深い「日本の文化」だと痛感した。
(手打ち蕎麦に興味のある方は「頑固親父の手打ち蕎麦」へどうぞ)

頑固親父の「つぶやき 2」

薪ストーブの「暖かさ優しさ」に魅せられてのめり込みましたが、金を掛けずに「知恵と汗」で楽しい世界が無限に待っていました。業者の言いなりにならず何とか工夫して上手く出来た時の満足感、山から薪を運び出す時の格闘でチエンソーも重機も無い時代の先人たちのご苦労を知る事が出来ました。たかが薪ストーブですがこの年令になって実に多くの事を学びました。木よマキよ薪ストーブよ「ありがとう」02.06.16

頑固親父の「つぶやき 3」

薪ストーブのホームページを立ち上げて半年が過ぎました、日本中に沢山の愛好家が居る事を知りました。皆さん薪ストーブが好きで好きでたまらない方達です。でもその多くの方は30代40代です、私の年代は殆ど居ません、実に不思議な事です。高気密住宅に外気導入式の外国製の高級品の薪ストーブを設置しそれを自慢し合う姿にいささか戸惑っています。私は人生を走りぬいて悠悠自適、晴耕雨読が夢でしたのでやれやれと思った時に出会った薪ストーブでした。ちょっと違う世界に飛び込んでしまったような気がしてなりません。          2003.01.19

夕日ヶ丘山荘閉館

夕日ヶ丘山荘をオープンして6年目頃から家内の喘息が始りました。
ワタシテキには年々酷くなる家内を見るに忍びなく医者にも山荘を取るか?命を取るか?二者選択を迫られ閉館(暫く休業し入院治療に専念)を決断しました。
入居者の家族宅を尋ね夫々に事情を説明して本人と家族の了解を得る事が出来ました。
命を預かる山荘のお陰で緊張の 11年でしたがお陰でマスコミにも取り上げて頂き感謝の気持ちで一杯です。
空から見れば自分の親を世話するだけが親孝行でなく他人様の親をお世話して暮す事だって同じ“親孝行”って事です。
2009年9月に最後の入居者を涙涙で見送りました。                 (2009.09)

春が来た!息子に嫁が来た!ついでに秋田から孫が来た!

山荘を閉館した頃二番目の息子が家内を元気つけるイイ話を持って来ました。
翌春に漸く世帯を持ってくれました。
息子の結婚式のお陰で疎遠になっていた長男にも再会出来ました。
嬉しかったのは"二人の孫"に会えた事です。
孫に「おじぃちゃん!こんにちは!!」って言われた瞬間に全ての思いがすっ飛んでしまいました。
元気な二人の孫を産んで育ててくれた長男の家内にタダタダ感謝です。
入院中の超頑固親父も出席して二代目から五代目まで揃いました。何はともあれ我が家にもようやく春が来ました。 春だけでなく孫まで付いて来ました。目出度し目出度しです。

頑固親父69年の人生で最高の日でした。長生きはするものです。           (2010.03)

三代目に就任 工場解体

2007.05に実家の会社を引き受けて代表取締役になってからは超頑固親父の兄一族と工場跡地の奪い合いに巻き込まれました(4度の裁判まで起こされて)(それまでは工場跡地を駐車場として収益を得て超頑固親父と番頭で山分けしてました・しかし末の妹が気付いた時には番頭にシコタマ使い込まれ 挙句長女と砂町一族が結託して工場跡地まで売却される寸前でした)
更地だから土地の奪い合いになるので有効利用を1年半に渡って検討の結果、解体してスーパーマーケットを作る事を取締役で決めました。
何が大変かと言うと超頑固親父が建設した工場解体の説得をするのが一番大変な作業でした。とうとう 超頑固親父に自らが50年前に作った工場が解体される現場を見せる事は出来ませんでした。   (2010.04)

ヨークマート建設 地鎮祭

地鎮祭は秋田から長男の家族も上京して新たな出発です。 二代目から5代目まで揃いました。
年内には完成オープンの予定なので竣工式もこのメンバーで迎えたいものです。    (2010.05)

夕日ヶ丘山荘売却

山荘を閉館しても家内の喘息は治まらず一年近く経った2010年7月に"再開"をする気力体力が芽生えず不動産屋に相談の結果売却を決意しました。
閉館以来自宅の目の前にある建物を毎日見て暮らす辛さは当人しか解らないものです。
自分で建てて自分で解体など・・・・誰か引き継いで下さる方をネットで募集したが皆さん帯に短し襷に長しで結局不動産屋さんが買い取ってくれる事になりました。
現在は不動産屋さんの紹介で新しい事業主が同じ夕日ヶ丘山荘って名前で賃貸し同じ事を再開して漸く満室になったようです。                              (2010.09)

ヨークマート完成 落成式

工場跡地にスーパーマーケット「ヨークマート」が予定通り開店しました。
残念ながら超頑固親父は竣工式、開店のセレモニーには体調不良で出席出来ませんでした。
時を同じくして超頑固親父の兄一族(砂町一族)から持ち株の買取交渉も妥結し全てが超頑固親父一族のものになりました。砂町一族の持ち株の買取がまさか実現するとは想像もしていませんでした。

頑固親父夫妻と二人の息子の預貯金を集め何とか買い取る事が出来ました。
ヨークマートの二階には当社の事務所も作り此処に会社が今でも存在する証を残しました。
ついでに超頑固親父の「胸像」も作り生きている内に当人に見て貰いました。
当人は照れくさそうで「ついでにお前のも作ったらどうだ!」ダト
何はともあれ目出度し目出度しです。                     (2010.10)

突然の胃ガン宣告

超頑固親父の兄一族に株式の代金を送金して「やれやれ!之でオレの役目も90%終わった!」と思いました。2011.01は所属するCCのベトナムツアーゴルフに参加しました。
帰国後風邪を引きその後胃がやたらムカムカするので近所の病院で生まれて初めて"胃カメラ"の検査を受けました。 2011.02.28突然"ガン宣告"を受けました。
「えっ・オレがガン?嘘だろう!悪い夢だろう!」って心底思いました。
神の書く人生のシナリオの凄さにただただ脱帽です。

 

ガン宣告を受けた翌朝に超頑固親父が昇天し(世間ではこのような事をフンダリケッタリと言います)ガンの入院手術は後回しにして取り合えず密葬の為に上京しました。
体調不良の中密葬を何とか済ませそのまま東京の「国立がん研究センター中央病院」で開腹手術を行い胃の3/4を切除しました。

3/08に国立がん研究センター中央病院に入院して3日後の3/11午後突然大地震が発生しました。

入院見舞いに来た西山夫妻と「俺達今日死ぬのか!」「だろうな!」と会話を覚えています。

その後のニュースでまさか津波や原発が・・・・・
2011年は術後の転移予防の為の抗がん剤服用で日々無気力な日を送ってます。

 

皆さんにお知らせ!
ある日突然ガン宣告を受けたら国立がん研究センター中央病院18Fです。
何が素晴らしいって医師と看護婦さんに決まってますデス           (2011.03)

超頑固親父昇天 密葬

ガン宣告を受けた翌々日に札幌市の病院に入院の予定が翌朝に超頑固親父が息を引き取ったので入院を先送りして取り敢えず上京して密葬の儀を行いました。
密葬は生前の超頑固親父の意向で自宅(8畳と6畳)に30人も入り大変窮屈なお葬式でした。
密葬なのにタイからはマノーさんまで来て下さいました。
通夜告別式と何も食えずそれはそれは辛いものでした。
超頑固親父の昇天は「何時逝っても・・・」と一年前から医者に言われていたので覚悟は出来てたので 別段動揺も悲しみもありませんでした。
東京に負けて親子三人で北海道に移り住んだ時からの重荷がようやく降りた思いでした。
(この気持ちだけは誰にも理解出来ないと思います)
勝ったとか負けたとかの次元でなく親子の壮絶なドラマだったのです。
人間ってのは難しい事は抜きにして「命を繋ぐ」 事だったのです。
昭和20年3月10日に行方不明になった祖父母が私を生かせてくれたのです。
そのお陰で五代目まで繋がったのです。
神の書くシナリオの凄さにただただ驚きです。             (2011.03)

家内の喘息

私がガンの宣告を受ける前後から不思議な事に家内の喘息止まりました。
何時再発するか針のムシロですが何故か止まってます。
原因が解らないので"難病"なのでしょうネ
これも神の書くシナリオなのでしょうか?              (2011.06)

ハタケは中止

夕日ヶ丘山荘開園と同時に本職に弟子入りして始めたハタケだが抗がん剤の副作用で今年に限り ハタケは中止する事にしました。
皆さんは健康の為にハタケだけはと言いますが当人にはその気力がありません。
去年集めた原木の処理は何としても処理したい思いです。
去年集めた原木は生きてる間に薪作りして"焚いて"あの世に行きたいと願ってます。(2011.06)

超頑固親父のお別れ会 あの東京会館で挙行

2011年3月1日に亡くなった父の「お別れの会」の挙行でした。
お別れの会は三男の手配で東京駅々前のお堀端の「東京會舘・9階ローズルーム」で行いました。
父の生前の付き合いのある方は殆ど他界してしまい果たして何名の方が来て下さるのか皆目見当も付かず不安な催しでしたが上は国会議員の先生から都議会議員及び江東区長と区議会議員まで来て頂き凡そ200名の方が出席され思いの外立派な「お別れの会」を出来ました。
息子として由緒有る「東京會舘」で父の見送る会を挙行出来た事が何より一族としての誇りでもあります。

実は写真をよ~く見て頂くと会場のバックに"掛け軸"が見えます。
書道が趣味の父が生前に自分が書いた気に入った書を表装して巻物にした「掛け軸」が押入れの中にン百本も眠っていたので  この際に参加された方に宜しかったらお持ち帰り頂く事を思いつきました。
表装代は凡そ3~5万程度掛かってる筈だが身内としては"ネコに小判"でやがてはゴミとして処分する以外になさそうなのでこの際展示しました。


皆さんの反応を心配でしたが展示した全てをお持ち帰り頂きホットした次第です。
友人知人にお持ち帰り頂き何よりも父が一番喜んでいると思います。
掛け軸をお持ち帰り頂き「親孝行」をした思いです。
↓の動画は父の略歴紹介です。                   (2011.06)

                  

                   東京会館 お別れの会

                  

                  ヨークマート 代表取締役 川上 氏

                  

                  友人代表 三上 誠 氏

                  

                  衆議院議員 柿沢未途 氏

                  

                  正木 正一 答礼

                  

                  掛け軸をお配りする

実は“お別れの会“の写真と動画は頑固親父の大学の同級生の東紀夫氏(人名録参照)が引き受けてくれました。しかし半年後に頑固親父と同じ“胃ガン“の告知を受けその半年後にはあの世に逝ってしまいました。

実に惜しい親友を失いました。神の書くシナリオを・・・・・         2012.11

胸像完成

事務所に鎮座していた胸像だが殆ど開かずの事務所(現在の実家の東京事務所は非常勤取締役だけで社員はゼロの為)に狭い室内に閉じ込めて置くのが忍びなく事務所の前に置きました。
ところが台座が木製(高級そうな合板材)なので雨風に負け塗りが剥げて来ました。
近年それが気になって仕方ないので知人の紹介の石屋さんと相談の結果“御影石”で作り直しました。
因みに祖父(初代)の胸像を建てたのは父二代目)で父の胸像は父が生存中に私(三代目)が作りました。
それぞれの銘板は↓の通りです。
当たり前だけど祖父の銘板は父が書き父の銘板は私が書きました。
これで建物が有る限り安心安全 私が何時・・・・です。          (201110)
正木愛次郎 翁                   S41.10.10

明治15.1.15相模の国小田原城下に山田孝之助次男に生まれる。
21歳の折青雲の志を志し上京し克苦精励あらゆる辛酸を舐め妻マセを得て大正5年3月現正木鉄工所を創立せり。
性格は剛健寡黙果断にして正義博愛の念に富み且つ卓説せる識見を有す。
東京震災記念塔を始め諸種の工事を施工し東都はもとより北海道九州朝鮮にまでその業績を拡む。
太平洋戦争下病躯を押して会社経営にあたり昭和20.3.10東京大空襲の戦火を被り霊界に去る。
 
正 木 健 三 翁  株式会社正木鉄工所 二代目社長  平成23.4.16

正木鉄工所が設立された翌年の大正6.11.21深川毛利町にて愛次郎の三男として生まれる。
幼少の頃から鉄工所の跡継ぎとして愛次郎の義弟に技術を仕込まれる。
昭和20年太平洋戦争敗戦で両親と全ての財を失うが 兵役より戻った下町の焼け跡から裸一貫から正木鉄工所を再興し 戦後の日本復興に寄与する。
昭和33年にはMA式鉄骨工法を考案し 特許を取得して全国に広め その後の鋼構造物に大きく影響を与える。
昭和40年代の高度成長期には都心のビルや大規模建造物 全国の高速道路の橋梁等の製作に多大な貢献をし 初代の意思を継ぎ鉄工所一筋に生涯を捧げる。
昭和55年には江東区の中小企業約500社を集め 江東区工業連合会を設立し初代会長に推され その重責を果たす。
他方 永年保護司として社会に貢献し 昭和58年に法務大臣より表彰状を そして平成8年には勲五等瑞宝章の褒章を授与される。
趣味は書道で「江雲」の雅号でその道の大家として手解きを受けた弟子は数知れない。
妻ヒサとの間に二男三女を育て 平成不況で一時休業した鉄工所の再開を夢見ていたが望み叶わず子孫にその意思を託し平成23.3.1 満93歳で永眠する。

大島工場跡地にマンション建設

2017年5月に積水ハウス札幌支店から大島工場跡地にマンション建設突然提案を受けました。
大島工場(凡そ150坪だが100坪は借地)頑固親父が戦後育った場所です。
借地の地主が東京都墨田区に遺贈したので買い取りをしたくても相手が役所なので行き詰っていた矢先の提案でした。
積水ハウス東京支店が地主の東京都墨田区と交渉の結果賃貸住宅建設が本会議で可決され一気に具体化した提案でした。
取締役会と株主総会の議決を得て建設の契約に至り2018年6月に完成しました。
これで父親からの遺言を全て完成させる事ができました。            (2018.06)

 

 

 

 

 

 

 

 

ベレオ 正木

株式会社正木鉄工所創業者正木愛次郎は明治15年小原市で生まれ大志を抱き上京し大正5年深川猿江町で鉄工所を立ち上げ昭和5年に此の地に工場を建てました。
しかし昭和20年3月10日未明の東京大空襲でこの地で行方不明のままです。
終戦後 戦地から帰還した二代目正木健三が焼け跡から裸一貫鉄工所を再び立ち上げ戦後の社会復興に寄与しました。
その後本社工場は砂町に移し此処は機械工場として残しました。
創業100年の昨年祖父と父が汗したこの地に賃貸住宅を着工し本日完成しました。
鉄工所が賃貸住宅として使用目的を変え“正木“の名を未来永劫に残し広く社会のお役に立つ事が出来て三代目としての役目を終える事が出来ました。
平成30年6月吉日  株式会社 正木鉄工所 代表取締役 正 木 正 一              


 

 

悠々自適

2007年に実家の代表取締役に就任して11年間”後始末”に奔走しました。

33歳の時に東京の全てを捨てて 家内と5歳の長男と北海道に移住して貧しくても親子仲良く暮し老後は薪ストーブとハタケとゴルフ三昧が夢でした。

北海道に移住して裸一貫働き 預金と年金で悠々自適の66歳の時に父に呼び出されて実家の後始末を託されました。父の兄一族との精算は父の時代では無理でした。

父の願いは祖父と父が汗したこの地に「正木鉄工所」が有った証しと祖父が興した会社を未来永劫孫子の代まで続ける事でした。

其の為には今の法律では莫大な相続税が必要です。

喜寿を過ぎた頑固親父は相続税の為預金に励み健康で一日でも一年でも長生きしなければなりません。

相続と納税の為の老後なんてバカな話しだがそれが父の遺言だから仕方ありません。

長男が退職するまではアト15年もあります。15年後は93歳で父の亡くなった歳です。

それまで長生きスレ!って!

こうなったら薪ストーブとハタケとゴルフ三昧で長生きしてやろうじゃん!        ( 2018.06)

 

 

 

>頑固親父の小言集は此処から

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