頑固親父流の蕎麦雑学 


美味い蕎麦食いとは?

・蕎麦を手繰るとツルツルとした喉越し!

・蕎麦の香りが鼻からスッと抜けて行くこの瞬間!

・食った後、残りのつゆで蕎麦湯を頂だいたときの後味!

・思わず「あぁ〜美味かった!」と言葉が出れば貴方は立派な蕎麦食いです。


きそば(生蕎麦)


そば店の看板に「生蕎麦」と書かれているが、これは「きそば」と読み、本来の意味は、つなきをまったく使わないでそば粉だけで打ったそば(生粉打ちそば)である。

なぜこのような言葉が生まれたのかと いうと、江戸時代中期以降に、小麦粉をつなぎとして使うようになる。

当初は麺のつながりをよくするために用いられていた小麦粉の量が徐々に増えていき、そばの品質の低下をまねき二八そばが粗悪なそばの代名詞になった為に、高級店が格の違いを強調するために「生蕎麦」や「手打ち」を看板に掲げるようになったのである。

しかし、この時代には製麺機が無かったので、どちらも手打ちであった。

ところが、幕末頃になると、二八そばまでもが「手打ち」や「御膳生蕎麦」を看板にするようになった為、その区別が なくなったしまった。

現在では、「生蕎麦」や「御膳」と看板、暖簾に書かれているのは、そのなごりであって生粉打ちそばの意味ではない。


最近はリストラ・ダツサラ・定年・後に蕎麦屋を始めた人がこの屋号を使いたがるようだ!


もりとざる

江戸の元禄の頃からぶっかけそばが流行るにつれて、それと区別するため、汁につけて食べるそばを『もり』と呼ぶようになりました。

これはそばを高く盛りあげる形から生まれた呼び名ですが、その盛りつける器から『せいろ』『皿そば』など、器の名前が転じて呼ばれる場合もある。


せいろとは蒸し器のことで蒸篭と書きます。

昔は、そばを茹でずに蒸し器で蒸して食べたので『せいろ』と呼ばれました。

『ざるそば』は江戸中期、深川洲崎にあった「伊勢屋」でそばを竹ざるに盛って出したのが始まりだ。


私の若い頃は”もり”を二枚食うのが常識で、客の五人も来ようものなら出前のオニイチャンが12・3枚肩に担いで自転車で配達に来たものだ。


最近は出前の姿を見かけなくなってしまった(北海道だからだろうか?)

私の師匠だった店は(他の事は別として)"もり・ざる"が同じ値段なのが気に入っている。


「のりをパラパラとフッタだけで50〜100円も余計に取るのはオレの性に合わねぇ!」

だから皆さん"ざる"を注文するかと言えばそうではない。

本当の蕎麦食いは"もり"で充分なのだ。

それともう一つ、

「タカダカ蕎麦だ!500円で腹一杯食ってこそ美味いのだ!」

一枚200グラムを食わせる、大盛りに至っては私の年代では持て余してしまう。

(他の事は別として)は以下をお読み頂くうちにお解かり頂けます。

私の子供の頃は"ざる"にはワサビが付くが"もり"には付かなかったような気がする。




二八蕎麦
二八蕎麦」語源の謎. 「二八そば」という言葉は江戸時代に出現したが、その江戸時代にはすでに言葉の語源が分からなくなってしまっていて、いまだに結論が出ていないという不思議な言葉である ...

一説は十六文のそばを二八(ニハチ)としゃれた九九説(掛け算)は、それ自体に説得力があって理解しやすいが、「江戸時代の蕎麦の値段」で十六文であったのは江戸の後期の7・80年間だけであった。

次に考えられるのは配合説です。「二八蕎麦」や「十割蕎麦」などのです。「二八蕎麦」の「二」は割り粉(強力粉か中力粉)で、「八」は蕎麦粉の割合です。

 一般的に「二八蕎麦」、が一番食べやすいと言われている蕎麦粉と小麦粉との黄金分割説(二八の割合が最高)説もあります。

そのため、「二八蕎麦」との言葉・看板を良く見かけます。蕎麦屋さんの中には「三七」や「四六」でありながら「二八蕎麦」と、銘打つ蕎麦屋が多いらしい。

事実十割蕎麦で暖かい蕎麦を食う事は短くブツブツ切れてしまうので店としても頭の痛いところである。十割蕎麦だから美味いかと言えばそうとも限らない。

古くなった蕎麦粉・ロール挽きした蕎麦粉などでははっきり言って美味くない。

店によっては「ウチは十割でも切れません」と技術を売りにしている場合も見受けます。(私の師匠だった店なども其の典型です)

私は「外一」で打つ事が多いです。(蕎麦粉10に対してツナギ1の割合)

人間国宝、柳家小さんの噺「時蕎麦」の一説、

 夜鷹蕎麦が夜、街を流している。呼び止めると、出来るものは花巻としっぽく。

熱いしっぽくを頼み、見ると行灯の柄が"当たり矢"縁起がいいと誉める。

話しているとすぐに蕎麦が出てくるので、「江戸子は気が短いので、早くてイイ」と。見ると割り箸。「きれい事で良いナ、その上、器が良い、臭いも良い、俺はソバッ食いだから分かる、わざわざ永坂まで食いに行くんだゼ」「蕎麦はこう細くなくっちゃいけね〜、うどんじゃねぇーんだから、その上、腰がきいてるゼ」「それから竹輪をこんなに厚く切っても良いのかィ。

それに本物じゃネェーか、竹輪麩なんかまがいもんで病人が食うもんだ。」「夜鷹蕎麦にしては出来過ぎだ、ナァ」おつゆまで全部飲みきり、一人で褒めちぎっておいて、

「いくらだイ、16文か、銭は細かいけど良いかい」「それでは、ひい、ふう、みい、・・・なな、や」と数えたところで「今、何刻(なんどき)だ」「九つで」「十、十一、十二・・・十六」と、一文かする。


蕎麦屋の値段

昔から土地・米・酒は其の時代の物価を反映していた,庶民の食い物として16文はそれなりに妥当な値段だった筈だ。

しからば現代はどうかと言えば、吉野家の牛丼は物価の優等生だからちょっと安いと思うが、サラリーマンが昼飯に使える金はおそらく500円前後であろう。

これはコンビニの弁当の価格からも想定出来る。もり蕎麦一枚はラーメン一杯と比較すると割高感がある。

これは多分に満腹感から来るものであろう。

従って500円で腹一杯に成れば蕎麦ファンはモット増えるのではなかろうか?

建物や器にやたら金を掛けて揚句底が透けて見える盛り方で高級感を演出している蕎麦屋が実に多いのは嘆かわしい事である。


昨年”ニセコ”にオープンした師匠の弟子の店に寄ったら”種物”を頼んで”もり”をお変わりしたら二千円近く取られた、

一見の観光客目当てとは思うが次にニセコに行っても二度と寄ろうと思わない。



年越し蕎麦

「運そば説」
 

鎌倉時代、博多の承天寺で年末を越せない町人に「世直しそば」と称してそば餅を振る舞った。すると、その翌年から町人たちに運が向いてきたので、以来、大晦日に「運そば」を食べる習慣になったという。

「運気そば」あるいは「福そば」とも言う。

「三稜(みかど・三角)縁起説」

室町時代、関東三長者の一人であった増淵民部が、毎年の大晦日に無事息災を祝って「世の中にめでたいものは蕎麦の種 花
咲みのりみかどおさまる」と歌い、家人ともども「そばがき」を食べたのがはじまりとする。


「細く長く」の形状説

そば切りは細く長くのびることから、家運を伸ばし、寿命を延ばし、身代を永続きさせたいと縁起をかついだ。「寿命そば」(新潟県佐渡郡)「のびそば」(越前)とも言う。


「切れやすい」ことからの形状説

そばは切れやすい。そこから、一年の苦労や厄災をきれいさっぱり切り捨てようと食べるという説。「縁切りそば」「年切りそば」とも言う。また、一年中の借金を断ち切る意味で「借銭切り」(岡山県賀陽町)とも。

どちらも残さずに食べ切らないといけない。


「そば効能説」

「本朝食鑑」(元禄十年・1697)に蕎麦は「気を降ろし腸を寛(ゆるく)し、能(よ)く腸胃の滓穢積滞を錬る」とあるように、そばによって体内を清浄にして新年を迎えると言う説。薬味のネギは、清めはらう神官の禰宜(ねぎ)に通じる、との俗説もある。


「捲土重来説

ソバは一晩風雨にさらされても、翌朝陽が射せばすぐに立ち直る。それにあやかって「来年こそは」と食べる。

「金運説

金箔を打つとき、打ち粉にそば粉を使うと金箔の裂け目を防げ、裂け目が出来ても一箇所に寄ってくっつく。

また、金銀細工師は飛び散った金銀の粉を掻き集める時にもそば粉を使う。

そこから、そばは金を集めるという縁起で食べるようになった。


引越し蕎麦

引越そばは、現在では利用されることが少なくなりましたが、生活行事として残っています。

引越の後、家主や差配、向こう三軒両隣に挨拶のため、そばを配る習慣は江戸末期から始まりました。

それまでは、アズキ粥を重箱に入れて近所に配り、これを「家移りの粥」と呼んでいました。


江戸末期、二八そば(小麦粉をつなぎにつかうそば。そば粉100に小麦粉20の割合)が主流になると、そばが長く切れないことから、「おそばに末長く、細く長いおつきあいを」という縁起を担いで、そばが珍重され始めた。


”信州信濃の新蕎麦よりもアタシャアあんたのソバがイイ”・・・昔の人は上手い事言ったものだ!

これは余談だが、私の住んでいる新興住宅街では"引越し蕎麦"どころか、挨拶にも来ない。

たまに来るのは向こう三軒くらいでそれ以外は道で会っても知らん振りだ。

此方も先住民族の意地で無視を装う。

これは私の地域だけでなく札幌の特徴のようで知人も同じ事を言っていた。

堪り兼ねてある日とうとう知人の方から声を掛けたそうだ、

「そうしたら以外にイイ奴で気がラクになったから親父さんもそうしたら!」・・・・ジョ・ジョウタンで無い頑固親父の私のプライドが・・・・・

お願いだから新参者の若い方から”声掛けて”頂戴!!

そうすりゃあ手打ち蕎麦くらい御馳走するからサ!


蕎麦湯

そば湯とは、そばを茹で上げたお湯のことで、これにはそばを打つときに用いられるうち粉が溶け込んでいたり、そばを茄でている時にそばから抜け落ちてしまう栄養分が十分に含まれている。

そのために、そば湯を飲むのには、ただつゆをうすめて飲むと いう事のほかに、そばから溶け出た栄養分を補うと いう目的も含まれている。


蕎麦を食い終わった後の”つゆ”に蕎麦湯を入れての飲んだ時に「美味い!・美味かった!」と自然と言葉が出るような”つゆ”が本当に美味いつゆなのである。


蕎麦湯は”つゆ”の引き立て役でもある。

 


南蛮(なんばん)

南蛮とは、ネギのことである。これは、古代中国の考え方が影響し、タイ、ルソン、ジャワなどの南様の国々のことやその地経由の人や物のことを江戸時代に南蛮と呼んでいた。

それが なぜネギになったのかは定かではないが、かの地を経由してきた人が好んでネギを食していたために、ネギを入れた料理も指すようになったと思われる。
「鴨南蛮・カレー南蛮・・・」は良く聞く言葉です。


薬味について一言

もともと蕎麦は不毛の荒地でも栽培出来た事から、米・うどんに変わる代用食だった。蕎麦特有の香りを消す為に薬味が添えられたが、現代は蕎麦特有の香りが寧ろ珍重されているから薬味で本来の味・香りを消してしまうのは如何かと思う。


私はつゆに薬味を殆ど入れない。本当に美味い蕎麦は薬味で風味を消してしまいます。
ではどうやって食っているかと言えば、

わさびを蕎麦に付けて食う
事はある

(そばつゆの中にワサビをドップリ入れる奴の気が知れない)

一味も蕎麦に振って食う事があるが猪口の中には入れない

ネギは蕎麦湯を頂く時に少し入れる程度です

本当に美味い蕎麦とつゆは薬味なんか必要無いのだ!


三たて

そばの三たてとは、そばが美味しい条件を表した言葉で「挽きたて」「打ちたて」「茄でたて」の三つのたてからきている。

「挽きたて」とはそば粉を製粉したすぐの状態の意味で、「打ちたて」とはそばを打ち終わった状態で、「茹でたて」とはそばを茹で上げてすばやく水切りした状態のことである。

なぜそれだけ時間にこだわるかというと、そばとは時間経過と共に鮮度の劣化が激しいからである。ただし、「打ちたて」の場合だけ、包丁で切った後の「切り立て」を茹でてはいけない。切りたてのそばは、沈まずに浮いてしまうのでうまく茹であがらないからである。

所謂”角”が残らないのである。(刺身・豆腐・・・は包丁の角が旨みの原点と同じこと)

 


返し(つゆ)

返しとは、醤油と砂糖を混ぜ合わせたものである

返しを寝かせるのには、醤油の劣化をおさえたり、醤油をまろやかにしたりする目的がある。

また、返しには、製法の違いによって「本返し」「生返し」「半生返し」に区分できる。

醤油もピンからキリまであって、ピンはピンなりの答えを出してくれる。

我が家では”ヒゲタの本膳”しか使いません(ちなみに価格は普通の醤油の7〜8倍はするけど)

出前など無かった昔は”茹でたて”が当たり前で茹でたては当然蕎麦に水分が残っていて”つゆ”が濃くないと途中で味が変わってしまう。

蕎麦をつゆに少しだけ付けて食うのを江戸では”粋”とされていて、どっぷりつけて食うのは出前で取った乾いた蕎麦を食う時代からそうなったようだ。


それから付け加えておくが、人件費は別として原材料費だけでは蕎麦よりつゆの方が倍近いのです。

スーパーの安売り醤油で美味いつゆが出来る筈が無いのです。

蕎麦猪口に入れられたつゆを充分に味わってください。

私の家に来て蕎麦猪口に蕎麦をドップリ付けて食うのだけは勘弁して欲しいナ!


一鉢二延し三包丁

れは、手打ちそばの工程を語呂よくまとめた言葉である。そして、「包丁三日、延し三月、木鉢三年」とも言い、手打ちそばの工程で大事な順番を意味し、一番重要なのは木鉢での作業であって、切りや延しは割りと簡単に上達することが出来ると いうことである。


水回しで盃一杯程度の水の加減で全てが決まってしまう世界です。指先に付く粉の感じを掴むのに最低3年は掛かるのでは・・・・・・
と最近ようやく解りました。 私も丁度3年掛かりました。

最近ついでにもう一言: 最近見かける気になる店

メニューにワザワザ

◇北海道産最高級蕎麦粉を使用しております。

◇だしは,枕崎産鰹節,羅臼昆布をふんだんに使っております。

◇塩は石垣島の天日干し,自然塩です。

◇店内はジャズを流しているので,私語は謹んで下さい。

◇蕎麦本来の味をそこなう為,店内は禁煙で酒類もお出ししません。

◇料金 もり ¥1200 ざる ¥1500

◇お子様連れはお断りいたします。 以上


「フザケルナー!」「イイカゲンニシロ!」蕎麦なんて”タカダカ代用食”だろうが・・・・・

フザケルナー!ついでにもう一言

最近の蕎麦ブームに付け込んでやたら”名人”と称するのがウジャウジャいて、この名人が年に一度札幌の有名ホテル

にやって来てもり蕎麦一枚が2000円だと・・・・ワザワザ出かけて行ってこま板にサインを貰って鬼の首でも取ったよう

に見せびらかしているのが居るから呆れてしまう(本人はこれで直系の弟子のツモリらしい)

其の”自称弟子”が素人相手に蕎麦教室を開いて「道具・そば粉」でシコシコ小銭を稼いでいる・・・・

1キロ700円で仕入れた蕎麦粉を1000円で売るなヨ!

せいぜい750−800円だろうが!

打粉に至っては仕入れ400円なのに1000円とは何事ダ!


こんな”店”や、こんな連中が教える”蕎麦教室”に有り難がって食いに行ったり習いに行く人の気が知れない! ・・・と頑固親父は思うのです。


だったん(韃靼)蕎麦

食品用に栽培される蕎麦は、普通種と韃靼(ダッタン)種の2種類に大別されています。

このうち韃靼種と呼ばれているものに韃靼蕎麦(苦蕎麦とも呼ばれています)があります。韃靼蕎麦は普通種のソバよりも健康に良いルチンの含有量が非常に多く、

(通常の蕎麦の数10倍〜100倍以上と言われています)薬効成分も多量に含んでおり、健康食品として非常に優れた特性をもっています が、

はっきり言って「決して美味くない!」 健康にイイとは言っても”これ”食ってまでは健康になりたいとは・・・

マア、世の中には健康の為に生きている方が沢山いらっしゃるのでマスコミに洗脳されているのではなかろうかと思う次第です。


砂場

日本最古の麺類店発祥の地の石碑があるのは、大阪市西区新町南公園に「ここに砂場ありき」と刻まれている。

「砂場」は江戸=東京のお店だと思っていたが、そのルーツは大坂なのである。

砂場でも有名な「虎ノ門砂場」の正式な屋号も「大坂屋」。前述の堀田七兵衛もその墓石には「大坂屋七兵衛」と刻んである。

大坂起源を裏付けるものに、1757年発行の資料があるのだそうだが、当時の大坂新町は江戸の吉原、京都の島原と並んで有名な遊郭があったところ。そこに「砂場」が登場した。

当時そのあたりは大阪城築城の際に資材置き場としたところで、地元の人たちが自然と「砂場」と呼んでいたらしい。具体的には「和泉屋」と「津国屋」という2店があったのだそうだが、どうやらこれが「砂場」の起源らしい。

大坂起源の「砂場」がどうして東京に進出したのか? その経緯はわかっていないという。 1751年刊行の『蕎麦全書』には大和屋というお店が「大坂砂場そば」として紹介されている。

『江戸名物 酒飯手引草』には砂場と名乗るそば屋が6軒掲載されている。 そのうち現在まで続いているのは、「糀町七丁目砂場藤吉(現・南千住砂場)」。

慶応年間にここからのれん分けして独立したのが「室町砂場」。

ここもやはり関東大震災で被災し、町名変更で「室町」を名乗っている。ここは「天もり」=ざるを考案した店として有名。


「赤坂砂場」はここ「室町砂場」の三代目の弟、村松亀次郎が昭和39年にのれん分けして出店した。「虎ノ門砂場」も「糀町七丁目砂場」からのれん分けしたお店で、創業は明治五年。


現在の店はなんと関東大震災前の造りで、木造三階建て震災・戦災を免れた貴重な建物である。
巴町砂場は上記の系譜とは違い、東京(江戸)でもっとも古いそば屋である。


以前、江戸時代の『名物商人ひやうばん』(1815年刊)では「久保町すなば」と称したが、 明治に入り西久保巴町に町名変更され、それ以降「巴町砂場」として今に至っている。


砂場と聞いて最初は「砂町」の間違いではと思った。

私が鉄工所の息子だった頃、鍛冶屋(鉄骨・橋梁・製缶)の世界では「砂町」の一言で日本全国通用したものです。

職人たるもの一度は”砂町”で飯を食ったもので砂町を知らない職人はモグリ扱いでしたが、「”砂場”を知らずして蕎麦を語るな!」と言う事になるノカナ。



更科蕎麦

蕎麦の実は外側から、外皮(ソバガラ)、種皮(甘皮)、胚乳、胚芽、となっていますが、

最初に挽いて出た粉を一番粉、次いで二番粉、次に出た粉を三番粉となりますが、二番粉、三番粉を使うと香りが強く歯ごたえがあり 、蕎麦独特のうま味があります。

又栄養的にもタンパク質・ビタミン類が豊富です。


更科蕎麦は胚乳の部分(真っ白)だけを粉にした物です、従ってうまみ風味に欠けますが歯ごたえと見た目の上品さで重用されて来ました。

 


更科蕎麦屋

麻布永坂町に「信州更科蕎麦処 布屋太兵衛」が店を構えたのは、それより後のことで、

この「信州更科蕎麦処 布屋太兵衛」こそ、現在の「更科」の総本家である。

ここの屋号は後にのれん分けされたお店でも、「布屋○○」と称している。

ここの蕎麦は太兵衛の領主であった信州の保科家との関係で、大名屋敷に出入りし、

その当時から高級なそば屋としての地位を確立していた。

特に四代目の時に将軍家御用達となったことから、以後は「御前そば」の名前も使われるようになった。

これは上品な一番粉を使用し、真っ白なそば=さらしなそばを確立する。

明治以降「麻布永坂更科」は家の名前であった堀井を冠し「更科堀井」と称している。

明治時代には「御前そば」を改良し、皇室を始め華族の邸宅へも出前を届けるようになる。

各地に「更科」と称する店が増えたのもこのころで、こんな伝統を誇る名店も昭和16年に廃業してしまう。

創業の血を引く堀井家八代目が「総本家更科堀井」の看板を掲げるのは昭和59年になってからである。

「更科」がのれん分けして発展するのは明治以降のことで、築地の「さらしなの里」が明治32年。

明治35年には「有楽町更科」が開店している。ここもやはり屋号は「布屋(源三郎)」。

「有楽町更科」の流れを継いでいるのが「布恒更科」。屋号は「布屋恒次郎」。

昭和38年に現在の大井で店を開いている。


藪蕎麦

全国には「やぶ」を名乗るそば屋がたくさんある。

しかし、東京の神田「やぶ」(東京都千代田区神田淡路町2)、並木藪蕎麦(東京都台東区雷門)、池之端藪蕎麦(東京都文京区湯島3)の3店を称して「藪御三家」である。

神田やぶそば・ 並木藪蕎麦・池之端藪蕎麦

神田やぶそばの起こりは「団子坂藪蕎麦」というお店を明治13年に堀田七兵衛が譲り受けたことから始まります。

が、この名称も俗称で本当は「蔦屋」というのが正式な屋号だ。

団子坂(文京区千駄木二丁目と三丁目の境を東へ下る坂)のあたりは竹「やぶ」が多かったので、いつしか「やぶそば」となった。

明治の頃の「やぶそば」はとても広い敷地を有し、1600坪もあったらしい。 だから前庭には崖や滝が配置されていたという。 ところが、「団子坂藪蕎麦」は明治39年に突然廃業。

このとき「藪蕎麦」の看板を受け継いだのが「神田やぶそば」。

堀田七兵衛はもともと「砂場」系の店主(中砂というお店の主人)だったのだから大正12年の関東大震災の折りにはお店は消失したものの、同年中に(ということは9月1日の震災後、3ヶ月で)再建。

現存する建物もこのときのものだ。

「並木藪蕎麦」は堀田七兵衛の三男・勝三が京橋にのれん分けをして始めたお店だ。

大正2年に浅草の現在地に移転。

並木の由来は当時の地名が「浅草並木町」だった。

今でも雷門から目と鼻の先にあるこの店は、そんな由緒ある様子を感じさせないところが、下町っぽくてよい。

「池之端藪蕎麦」は勝三の三男・鶴雄が昭和29年に開業したお店だ。

だから、祖父=神田やぶそば、父=並木藪蕎麦、子=池之端藪蕎麦という関係になる。

昭和の終り頃のテレビドラマで「火の用心」(シナリオ倉本聰)・トンネルズの石橋と木梨が異母兄弟の物語で、シナリオでは日本橋の蕎麦屋だが、これは明らかに神田藪蕎麦を意識したもので"通し言葉"が使われています。

倉本先生・鬼平犯科帳の池波正太郎がこよなく通った店として有名だ。


蕎麦粉の知識

石臼挽き

古くからの伝統的製粉方法、ゆっくりとした回転数で挽くため生産量は限られるが、風味、色調などに優れている。

ロール挽きの粉に比べると、粒子の角が取れた丸い形になり非常になめらかである。

粒子の粒度分布は細かいものから大きなものまで含まれるのが特徴、蕎麦の繋がり易さもこれに起因するようである。

ロール挽き

近代的製粉方法で均一な製品を大量に生産することが可能である。当社のロール製粉機はスイスのビューラー社製の最新鋭機で、摩擦熱を防ぐ為ロール内部に通水をして温度が上がらないようになっている。

ロール挽きの特徴は原料を徐々に挽砕してゆき、内層、中層、外層粉の様に取り分けが出来ること。

一般的に内層粉は食感が良く外層に近くなるに従って風味が良くなる。

製粉された粉の粒子が石臼と違い均一に取れることも大きな特徴といえる。

私が蕎麦粉を分けてもらうのは札幌の外れにある従業員5〜6人の小さな工場で石臼が10台位とロールが3台程常に回っています。勿論石臼で挽いた引き立てを香りと共に頂いて来ます。


蕎麦粉の種類

内層粉

胚乳の中心部を集めた粉。大半がでんぷん質で風味は少ないが、食感のどごしがとても良くほのかな甘味が有る。粉の色はとても白く透明感の有る蕎麦が出来る。

中層粉

胚乳部と甘皮に近い部分の粉が程よく含まれる粉。蕎麦の香り、風味に優れており内層粉に比べると色が濃い。

外層粉

甘皮部分の粉が中心。蕎麦本来の香りは一番強い。たんぱく質の含有量が多くなる。但し、食感は少々もさつく感がある。

全粒粉

取り分けを行わない粉。甘皮まで挽き込んだものである。味、香り、食感どれをとっても満足のいく蕎麦らしい蕎麦が打てる。

打ち粉

花粉とも呼ばれる。実の中心部分の粉でほとんどの成分はでんぷん質である。他のそば粉に比べると、粒子が若干粗い。

御膳粉

更科粉とも呼ばれる。実の中心部分だけを集めた粉ででんぷん質の集まり。非常に粒子が細かく、のどごし食感が良く透明感の強い蕎麦となる。また、挽砕できる量がとても少ない。


蕎麦と酒の話

八代目 林家正藏の話として、晦日に東京では蕎麦を食べる風習がある。

みそかにそばをたべると小遣い銭に不自由しないからみんな食べるんだよといって無理に食べさせられたものだが、あれはサナダ虫の予防で、昔の人は月の初めには、腹の虫が上を向くと信じていた。

だから、月末に蕎麦を食うのは効果満点なわけ。しかしこんな事実を話したのちに、さあ食え!  では妙味がなくなるから、お金に困らないからお上がり・・・・昔の人は用意周到だといっている。

昔は蕎麦屋の二階といえば恋を語るには絶好の場所であったそうだ。席料をとるわけでもなく、誂え物をしてそれを運んで来れば、今度は客の方から手を叩くまでは、誰も二階へ上がってこないまことに粋なものであった。

男女二人の客が二階に上がると店ではオシドリといって店の者にも二階へ行くときには梯子段ところで「お待ちどうさま」と声をかけろ!なんてえ注意をしたとも書いてある。

紺屋のあさって蕎麦屋の只今

あてにならぬ約束のたとえ。紺屋(染め物や)は明後日になればできるといって、延ばすのがくせ。<BR>そば屋の出前で「はい只今」も同じ。

なかなか注文品が到着しない。最近は出前をするそば屋も少なくなり、自転車にのり、せいろ(もりそばの器)を二十枚三十枚積み上げて配達する姿は見られなくなった。

 


検定試験

最近の手打ち蕎麦ブームに漬け込んで考え出されたのが、「段位認定試験」で蕎麦屋の親父とノーキョウの職員がグルになって年に一度行っている。

(何故グルかと言えば一昨年までは5000円の検定料が去年は一万円に値上がりした・素人に限定しているのに蕎麦屋の親父がが何故カンデいるのか)

二段の検定要綱には

1そば打ちが40分以内に終了している。

2..そばが切り揃われている率は70%以上である。

3. そばを持ち上げても23cmくらいにつながっている。

4. 打つ姿勢が堂々として落ち着いている。

5. 周囲へのそば粉のこぼれがなく、道具や衣服、身体の汚れ方も少ない。

また、道具の始末がきちんとできている。


としか書かれてない。(殆どが委員である蕎麦屋の親父の主観だ)

私も師匠に煽てられて受けたが二段位は何故か不合格でした。

デ、次回の参考の為にも何が悪かったのか知りたくて手紙を出したら(それも返事が来ないので返事が無いのが返事かと催促したら)ようやく来て

1.そんなのイチイチ教える訳にはゆかない

2.委員がヘタクソと認定したから

3.落ちて文句を言って来たのはアンタだけだ

4.温泉で財布を抜き取られたのは取られる奴が悪い


普通試験って○×とかで点数が出て落ちても納得するものが主観だけの検定なので納得出来ないものは出来ない。

私の入っている会の二段三段のお方の腕前から比較しても何故私だけ不合格なのか今でも納得しかねる。

農林水産省の天下りが蕎麦ブームに漬け込んで素人相手に考え出した認定制度で、それにくっついている連中の餌食にはこれ以上なりたくない。

デ私の結論は 

●二段なんてイラネエ!・・・・・・・・昔からの蕎麦屋の親父は持って無い

●幌加内なんて二度とイカネエ!

●幌加内の蕎麦は死ぬまで食わネエ!

自動車の運転免許は人命に関わるが"手打ち蕎麦"はタカダカ素人の趣味の世界の話だ。

趣味の世界の事なのだから、

多少下手でも合格させてイイ気持にさせて、イイ気持にさせると只で皆さんに食ってもらおうと振舞うし、そうすれば蕎

麦粉がドンドン売れるし、只で食った連中がオレも習いたいと思うだろうし、その結果みんなが検定試験を受けに幌加

内にやってくるのがイイに決まってるのに・・・・何でこんな簡単な事が解んねえのかな〜〜〜!

落とせば来年又受けに来るとでも思ってンダベカ!二度と 行く訳ネエだろが!


蕎麦屋の通し言葉(隠語)

・つく

一個のこと。「天つき三杯のかけ」は てんぷらそば一杯、かけそば二杯に意味
  
・まじり

二個のこと。「天まじり七枚もり」
・かち−−−二種類のの出物が五個以上の奇数で多いほうの出物を先にして「かち」をつける。「てんぷら勝って七枚おかめ」また偶数の時は「と」 が使われる「てんぷらとおかめで六杯」

・さくら

蕎麦の量を普通より少な目に盛って出すことをいう「ざるお代わり、台はさくらで願います」別名「きれい」という

・きん−−−さくらと反対の意味

・おか

岡に上がっているという意味から、種ものの種を別の器にもってだすこと。「岡で天ぷら」

・おかわり

一人の客で二杯の注文の場合に使う。

・お声ががり

そばを出すのは客の声がかかってからと言う意味

出物が三種類以上の場合は「まくで・・・」と続け、一緒の客だから同時に出して欲しい云う意味を持つ。

「おかめが勝って七杯天ぷら、まくでうどんとそばかも四杯」

神田淡路町にある薮蕎麦本店では

客は「いらっしゃいぃ〜〜」「いらっしゃいぃ〜〜」の声で迎えられている。

注文を聞いたり、お茶を出したりする「はなばん(花番)」が客の注文を帳場に伝える。

「せいろ二枚 お一人さん 猪口二杯つきぃ〜」、「天ぷら二枚ぃ〜」
など語尾を長く延ばし、良くとおる澄んだ声で帳場

から調理場に通されている。どこかで、せいろの追加が出て「せいろ一枚 猪口付き お急ぎで願います!」と語尾を

延ばさずに調理場へ伝える。

きわめて合理的で、無駄な言葉がなく言葉の響きもきわめて良い。 聴くともなしに耳にしながら、少しの酒で蕎麦を楽し
んでいると一昔前のモノクロの時間にいるような錯覚に浸ることができる。


品書き川柳

鴨南蛮(かもなんばん)   鴨のねぎ 南蛮人も 難波もの

南蛮はねぎを指すと言います。唐辛子同様に南蛮人が好んだからだそうです。

しかしねぎは南蛮人が来るずっと前から日本にありました。

関西では「鴨なんば」と称していて、その「なんば」とはかってのねぎの名産地の「難波」のことだと言います。

たぬき         揚げ玉や 煮揚げに化ける 悪たぬき

関東は、たね抜きの揚げ玉? だったら「たぬき」じゃねえか。関西は、きつねが化けよったんやが、揚げは好きやさかいそのままで、白いうどんを黒っぽいそばに変えよって、なんや「たぬき」みたいやで。

きつね         お稲荷の きつねも好きな 油揚げ

油揚げ料理は「しのだ」と称されます。うどんにも「しのだ」があったので、煮揚げの別名にはさぞかし苦心をしたのではと思われます。

油揚げはきつねの好物と言われるし、色もまさにきつね色、それやったら「きつね」しかないやん!だったんでしょうね。油揚げは「いなり」とも称されます。

夜鷹そば・夜鳴きうどん この夜ふけ 夜鷹夜鳴きは あったかや
江戸では 夜鷹(娼婦)も出る夜ふけの辻にそば売りが、浪速では 夜鳴き鳥のように夜ふけに働くうどん売りが、寒さと空きっ腹をしのぎに来る客を、じっと待ったそうです。品書きはかけそば・素うどんだけだった

おかめ        お多福が わての顔やと おかめ見て

具を「おかめ」の顔のように並べるからなのです。

「おかめ」は「お多福」とも呼ばれ、美人とは言えませんが愛想良しの働き者の女性だったそうです。

月見         白身雲 黄身まん丸の 月見かな

つゆの熱で少し白くなった白身が雲ならば、その雲間からまん丸黄身の月が顔を出しているんですね。

昔の人は本当に粋でしゃれていたのですね。鉢の中にも月見をして見せるんです。

花巻         浅草の 磯の花巻きゃ そばも粋

花を散らすようにもみ海苔を入れるとその香り彩りはそばにぴったりで、「どうでえ、こいつぁまったく粋じゃねえか」と江戸っ子もご満悦です。

海苔を磯の花とも称します。 浅草海苔の起こりは、浅草で採れた、浅草紙すき技を取り入れた、の二説があります

あつもり       あつもりは 平家心を 熱くもる

もりそばは普通冷たいのですが、寒くなると熱いのも好まれます。

熊谷直実に討たれた若き平家の敦盛は常に慕われます。江戸は人情処でい。

熱くもりゃあ、そりゃあなんたったって「あつもり」でい。と言う訳でもり蕎麦を熱くしたもりそばではありません。単なるもり蕎麦の事。


蕎麦の諺

朝とろ 夕そば

朝はとろろ汁をすすり、夕食にはそばを食べるのが、かっての信州におけるご馳走だった

一鉢 二延し 三包丁

手打ちそばの作業の要諦を語呂よく表した言葉。

まず、一番大事なのが最初の木鉢の工程・水回し・練りで、ここでそばの良否がほぼ決まってしまう。 次に延し、最後が包丁による切り方であり、この過程をふんで修行する。

うどん一尺 蕎麦八寸

手打ちの原則で、一番食べやすいとされている長さを表した言葉。

饂飩三本 蕎麦六本

うどんは太いから一度に三本ぐらいずつ、そばは細いから六本ぐらいずつ口に運ぶのがちょうど良い、という。

木鉢 麺棒 三さわし

木鉢での粉なのこね方、めん棒を使ってののし方、そばの洗い方は、手打ちそばのポイントであることを表した言葉。さわしは、そばを水に浸けてよく洗うこと。

切りべら二十三本

江戸時代から御定法とされていた並みそばの太さで、のした生地の一寸(三・〇三㎝)幅を二三本に切ること。

そば一本のの切り幅は約一・三㎜で、のしの厚さはこれより少し厚く、切り口はやや長方形になる

紺屋の明後日 蕎麦屋の只今

紺屋(こんやともいう)はその仕事が天候に左右されるため、染め物の仕事が遅れがちで、客が催促すれば明後日になれば出来るといってその場をしのぎ、実際はあとにのばすのが紺屋の常套手段。

そば屋の出前で「ハイ只今」も同じ。あてにならぬ約束の譬え。

蕎麦食ったら 腹あぶれ

福島県会津若松市、新潟県北蒲原郡中条町荒井浜地方の言い伝え。

あぶれは、温めろの方言。会津地方では、昔から「蕎麦食って風呂に入らない馬鹿はいない。

餅食って寝ない馬鹿はいない」と言われてきた。唐橋宏(会津若松市「桐屋」)によれば、新そばの時期になると、冷たい洗いたてのそば(水そば)を汁をつけずにすする食べ方があり、満腹するころには芯から冷え切ってしまうので、風呂に入って温まるのが仕来りだ、と言う。

逆に、江戸や群馬県利根郡では、そばを食べてすぐ風呂にはいると中気になる、との俗信がある。ともあれ、そばを食べたら、そば湯を飲むのは理にかなっている

蕎麦作りに飢饉なし

凶作のとき、すぐソバをまけば、米・麦の補いになる。(茨城県)

滋賀県伊香郡余呉町上丹生では、「蕎麦は飢え知らず」といわれている。

蕎麦と坊主は田舎がよい

ソバと僧侶とは、都からよいものが出ない。

蕎麦で首くくる

出来るはずがないこと

筏は職人の恥・・・・頑固親父

蕎麦を切ったときに包丁とまな板にスキマが出来てイかダのようにつながった蕎麦のこと。

蕎麦職人として恥ずかしい事

蕎麦の自慢はお里が知れる

よいソバが穫れるところは土地が冷涼で、米を作るには適しないゆえ、ソバ自慢は余り自慢にはならない。

蕎麦の三返り

そばを茹でるには、火加減が難しく、火が強すぎても「空煮え」の心配がある。

釜の中に入れられたそばが、浮き上がり、湯の表面をゆっくりと泳いで釜の縁に到着して下に沈み、また反対側から顔を出しておよいでくる、といった動作を三回繰り返せばもう茹であがっていると言う意味の、そばの煮上がりの早さを表した格言。

蕎麦は角

ソバは稜麦・角麦とも呼ばれるが、打ったそばの切り口は本来、真四角でなければならない。

ところが、のしが面倒なので、江戸時代の職人は楽な「切りべら二十三本」を定法とした。

機械打ちの場合は汁つきをよくするため、そばは「切りべら」、うどんは「のしべら」にする。

蕎麦屋の酒

老舗は上酒を置いたもので、この伝統はいまも継承されている

蕎麦屋の湯桶

そば湯を入れる漆塗りの湯桶は角につぎ口がついているが、他人の話に横から口を出すうるさい奴を言う。

三日薯蕷に晦日蕎麦

昔は毎月三日にとろろ汁を作り、晦日には必ずそばを食べるのが慣習であった。(東京都)

揉み方三年 切り方三月

手打ちの技術を習得するには、本鉢で揉む基本的な仕事が一番難しく三年も掛かるが、反対に包丁の使い方はやさしく、僅か三月もあれば上手に切れること。

この間にはのし方があって約一年。昔は四、五年かけて、みっちり修業したものである

割り粉も蕎麦のうち

つなぎの小麦粉についても、その品質や取り扱いに気を配る必要があることをいったもの

 


蕎麦にまつわる句俳句

名月や先づ蓋とってそばを嗅ぐ    芭蕉

我里は月と仏とおらがそば       一茶

蕎麦はまた花でもてなす山路かな  芭蕉

故郷や酒はあしくも蕎麦の花     蕉村

山越えて三島に近しそばの花     子規

そばはまた花でもてなす山家かな   芭蕉

 夜蕎麦売駈落者に二つ売り

蕎麦切でさへも店やは汁少な

 手打蕎麦下女前垂を借りられる

晦日蕎麦残った掛けはのびるなり

 樟脳を蕎麦の次手に買いにけり

蕎麦切りの一すじのこる雛の腕

 樟脳に包んでおいて蕎麦を喰い

毛せんの上で二八を盛り分ける

 蕎麦の客将棋の駒で数をとり」

百人の蕎麦食う音や大晦日

 信濃では月と仏とおらが蕎麦     一茶

三日月の 地は朧なり 蕎麦の花

やがて見よ 棒くらはせむ そばの花

団子より 坂に名高き 手打ちそば
  (江戸 本郷団子坂にあった有名な「つたや=藪そば」を指す)

川柳

そば打ちの母を横目にカップ麺

つながらぬそばが絆の倦怠期

そばの花 咲いて絵になる 休耕田

長すぎる 電話にそばが 欠伸する

六十の 食べ放題に 向かぬ腹

新そばは やはり旨いと 古女房

痩せるには蕎麦という医師やや肥満

そば好きが 江戸っ子ですと 鼻にかけ

無人駅 そば屋がみんな 仕切ります

マンションに 化けた哀しい そば畑

通ぶって これ飲まねばと 蕎麦湯のみ




 

 

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